見出し画像

やめる意思決定をできた人が強者になっていく説

「いつでもやめられる」ことこそ強者の特権を読んで、確かに強者は選択肢が多いから、やめられるなと納得した。ただ、少し考えてみて思った。これって逆の命題も成立するのでは?

つまり「強者だからやめられる」の逆の命題は、
「やめる意思決定ができたから強者になっていく」となる。

ちょっと論じてみたい。

「やめる」のは一番難しい意思決定

意思決定の種類はどんなものがあるか。

ここでは大きく「始める」「続ける」「やめる」の3つに大別してみる。この中で一番心理的負荷が高い意思決定が「やめる」だ。

「始める」は惰性ではできないが、なんとなく始めても別に誰にも咎められない。例を出すと、なんとなく、ノリで、ダイエット開始宣言をするのは簡単な行為だ。ぼくは軽く10回はノリでダイエット開始宣言をしてる。ちなみに体重は右肩上がりで増えてる。「始める」と「結果にコミット」はそれぞれ独立した行為なので、始めたけど結果が出ないことはよくある。結果を出すのは難しい時もあるが、始めること自体はかんたんだ。

「続ける」は習慣化している事なら惰性でもできるし、なんとなくもできるし、続ける事で周りから咎められる事はあまりない。咎められるのは悪い習慣を続けてるときだけで、ギャンブル・過剰な飲酒とか以外は、基本咎められない。

「やめる」に関しては惰性では当然出来ない。本格的にコミットする前であればなんとなくフェードアウトはできるが、続いているものをやめるのは労力がいる。なんとなくやめたり、仁義を通さずやめたら、後々まで禍根を残すし、自分の評価を落としてしまう。

「やめる」意思決定は身近な人からの反対・非難を受けやすく、心理的ハードルがめちゃくちゃ高い行為だ。身近な人にやめることを説明する際に、真っ当なロジック・ストーリーが必要になる。しかし、真っ当なモノが用意できたとて、頑張って話しても納得してもらえない時もある。そういう時は、気持ちを強く持って自分の意志を優先することが求められる。

「やめる=過去の否定」という厄介な錯覚

最近こんまりがアメリカで大ブームだ。

見方を変えると片付けコンサルはやめる意思決定のサポートと言える。年齢を重ねていくと、捨てる=やめる意思決定が難しくなる。捨てる行為は過去の自分を否定するように錯覚してしまうから。

この錯覚を乗り越える方法をこんまりさんは発明した。それは「捨てる時に感謝の言葉を口にする」という方法だ。感謝を口にすることで、捨てる時の自己否定の錯覚を打ち消し、意思決定を後押ししているのだ。あれはすごい発明だと思う。


人生における優先順位を自問自答するプロセス

やめることを考えている時は、本当に色々なことを考える。自分にとって本当は何が大事、人生における優先順位を自問自答するのだ。

・なぜ周りに反対されてまでやめるのか
・自分は果たしてなにを手にしたいのか
・次に行く場所でそれが手に入るのか

普段の生活だとこんな自問自答はほとんどしないが、このプロセスが大事なのだ。意思決定の精度を上げるのは強い目的意識だと思っているが、こういう自問自答をすると段々と目的意識を自覚してくる。

目的意識がはっきりしてくると、時間の浪費をしなくなる。
時間の浪費をしなくなると、成果を出せるようになる。
成果を出せるようになると、強者になってくる。

やめる意思決定が出発地点となり、強者に育っていくサイクルに突入する。というのがぼくの主張だ。


とはいえ元々意志が強いからやめられるんじゃない?

この可能性はまあ、ある。ただ、最近読んだ本に面白い一文を見つけた。

意志が行動を決めると我々は感じますが、実は因果関係が逆です。外界の力により行動が引き起こされ、その後に、発露した行動に合致する意志が形成される。そのため意志と行動の隔たりに我々は気づかない。つまり人間は合理的動物ではなく、合理化する動物である。これがフェスティンガーの答えです。

小坂井敏晶. 社会心理学講義 ──<閉ざされた社会>と<開かれた社会> (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2105-2108). Kindle 版.

要は行動が先に起こり、意志が後付けで生成されるのだ。

人間は過去の行動を合理化できるよう、次の行動を選ぶ。ぼくは転職を3回しているが、過去に下した決断を間違っていたなどとは思いたくないので、前の環境では取らなかった行動を取るようにしている。強者になっているかは自分では分からないが、幸福度高く生きていくためには強くなることも必要だとは思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?