センチメンタリズモ

センチメンタリズモ

「天才」ということばが嫌いなんである。現代は天才の大安売りだ。そんな天才がたくさん居てたまるかい。モーツァルトクラスなら大手振るって天才と呼んでやろうもんじゃねえか、なあ?

しかし天稟を感じさせる作品は人類史の中に頻出する。出土した器や塑像、作者もしれぬ渡来茶器や納屋に埋蔵された農機具には神が宿ったかと思うほど美しいものが少なくない。おそらく名もなき農夫や職工らが時を掛けて練熟した手の中から捻り出した工夫の結晶である。柳宗悦はこれを「用の美」と呼んだのだ。けだし名言である。おなじように名もない誰かが衝動に突き動かされて描いたラスコー壁画もまた、プリミティブな躍動感を現代に訴え続けている。絵を描く事は当時の至上命題である生命維持活動とはまったく無縁であり、まったき芸術的欲求からあの壁画を描いたという言うことはとても大切な事だ。ここに天才とか、ディーヴァなんていう陳腐な語は息をひそめるのだ。ざまあみやがれ。芸術とは偉大な無駄なんだよ。それを知って初めて芸術を語る資格を有するのだ(ウソである)。

そんな天才嫌いのぼくがある絵につねに引き寄せられる。

ご存知、日本初の重文指定された青木繁の「海の幸」である。千葉の布良の海と言われる砂浜に裸形の男たちが手に手に銛を掲げ獲物である巨魚や鮫を持ち帰る一景。ある者は赤銅の裸身を誇らしげに仰け反らせ、ある者は老いの坂を下り、そしてある者は唯一白塗りの顔をこちらへ向け不安そうに鑑賞者へ眉をひそめる(この人物は青木の恋人福田たね本人がモデルだという)横長の絵は中央にフォーカスされ、両端へ向かうにつれ人物はあやふやに未完となって放置される。出展した後も作者が加筆をしたというこの絵、未完のままであっても、青木繁という人物のプロフィールを何一つ知らなくても、観るものの心に太い楔を打ち込む絵であることは間違いない。彼のプロフィールはWikiを見れば良い。但し書きなんてどうでも良いのだ。

人は言う。
「近代から現代へと向かう日本の大きなうねりのような時勢をあらわしている。」
「人の一生の変化を右から左へと書き表す絵巻だ。」
正解でもあるし不正解でもあろうよ。
画家本人だって分かってるか怪しいもんだ。しかし彼は絵で、筆で生々しい声で刻んでいる。それはラスコーのような歓びではない。名も知らぬ職工の工夫の熱もない。しかし彼の絵からは不安や鬱屈、焦燥、不信、落胆、挫折、それぞれの叫びが聞こえてくる。本来満足の象徴である海の幸は彼の不安定なメンタルの暗喩で溢れかえっている。これでよかったのだろうか、よくなかったのか、、それは現代のぼくらにも答えられないんだよ、青木。しかしこの生々しい声はぼくらを常に新鮮な気分にしてくれる。ぼくは彼の絵に天稟を感じる。

この絵を観るときふとこんな歌が重なる。

夕日のなかに着物ぬぎゐる蜑(あま)少女海にむかひてまはだかとなる 前田夕暮

腹白き巨口の魚を背に負ひて汐川口をいゆくわかもの 前田夕暮

牧水とならぶ自然主義派の前田夕暮だ。一首目、水を弾くような生命感、躍動感溢れる澄んだ肉体の美は一片の濁りもない。しかしどこか彫像然として見える蜑少女の放埓たる肢体は夕暮の深く暗い部分に紅く光るコンプレックスを示現化したものなのかもしれない。

二首目、こちらの方がリアリティを帯び、わかものの満ち足りた疲労がこちらにも伝わってくる。汐川口をあゆむ調子に合わせ揺れる巨口の魚は滑稽でありながら、全てに現実感の薄い現代に対するシニカルな批判を表している。

この二首はどれも絵画的アプローチの短歌である。しっかりとした構成、描写力はさすが前田夕暮と言える。

短歌の可能性を思う時、ぼくはきっと写真や絵画、そして過去の名歌にそのヒントがあると信じて疑わない。青木がどこの誰兵衛だろうが関係ない。夕暮もまた同じだ。彼らの積んできた土石からぼくらはきっと根を張り、芽を出さねばならぬと強く感じる春の夜なのである。

叶裕

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