「ブランコのひとびと」(俳句誌「豆の木」No.23 を読む)

「ジャックが巨人から盗んできた雌鶏は次第に金の卵を生まなくなり、袋は財宝を吐かず、ハープも寡黙となり、以降ジャックは堅実に生きる事にしたのです、、」童話「ジャックと豆の木」の後日談なんであるが、いやいや、これじゃ盗人の改心譚じゃねえかといつもツッコむのである。

この物語、オチ以上に気になるのはアホのジャックが連れている牝牛と豆を交換した人物である。このおっさんは人の愚かさをジャックに訓蒙したわけだが、一体何処の誰兵衛だかも判然としない。まあ随分とダイナミックでアバウトな訓話なんであるよなぁ。

巨人オーガの棲まう天空と娑婆を一夜にして繋ぐ豆の木。それは世界中に似たような神話が存在する世界樹ことユグドラシルにも似て、人智を超えた奇跡として屹立する。ジャックは禁忌を犯し富を得、異界と絶縁する為に豆の木を切り倒すという、その辺の悪党もびっくりのポジティブなバイブスの持ち主なのであった。

この「豆の木」を冠した句会がある。

超結社同人誌「豆の木」。なんと今年で創立25周年になるのだそうだ。立派なものである。ここには知人の近恵、柏柳明子、上野葉月、月野ぽぽな他、岡田由季、小野裕三、こしのゆみこ、田島健一各氏の実力派の各氏が参加しており、それぞれの個性ある句業を知っているだけに以前から少し興味があったのだ。結社は視点を育む場所である反面、閉塞しがちという側面を持っている。彼らはそこに満足せず積極的に外に出て新たな視点を獲得しそれを持ち帰ることで後進を育てる一助としているようだ。
優れた表現者は互いに惹かれ合うものなのかもしれない。そんな雰囲気が豆の木には、ある。

失礼ながらぼくはこの俳句誌を初めて拝見する。だからこそ見える物があるとある人は言う。その意味をぼくはよくわからないけど、読む価値があるものは目の中に全て入れてみようと思う。

あたたかや漱石の句に子規の◯ 太田うさぎ

往時の松山はビッグバンの直前であった。漱石の赴任と子規との邂逅こそがトリガーとなり、俳都と呼ばれるまでの化学変化を起こすのだ。この句には大成を為すなどと言う力みは無くすこしBL風味のする、ほのぼのとしたおかしみすら、ある。

連なりの薄きところも蟻の列 岡田由季

蟻は餌を見つけると不可視のフェロモンを尻より抽出し足跡を残しつつ帰巣し、それを辿り仲間が出陣するのだそうだ。揮発性のあるフェロモンをいかに効率よく拾い、伝達するかというアルゴリズムは人間社会の物流アルゴリズムに応用されるほど効率的なんだと言う。不揃いの蟻の列はさながら現代の家族の相を見るようだ。ベタベタしなくても、離れていても、どこか似た者同士の人間どちは同じ道を歩み行くのだ、と。

筆順のごとく連なる水母かな 小野裕三

暗く、そこだけが蛍光に照らされて、水母は人間の時間軸などお構いもなく独自の筆致を水槽に描く。一画、二画と毛筆のそれに似て、その軌跡に作者は美しさを覚えている。海外に在する作者はもしかすれば我が子に漢字や仮名を教えることに苦労しているのかもしれない。ふと水母に教わったこのリズムを子供に見せたいと思ったかもしれない。ここにフェティの匂いは、ない。

踊り子の闇をひらいてゆく躰 柏柳明子

作者はどこかラテンの匂いのする人だ。
フラメンコをやっていると聞いて思わず膝を打ったことがある。この句はまさにアンダルシアのヒターノのバイラオーラ(踊り子)そのものを表している。
扇情的な倍転の裏拍子のハンドクラップ、ハレオがそれを煽る。あおる、煽る。闇の中、上気するまま次第に開いてゆく花の中心に見えるもの。悲哀、恨、ブルース、コラサォン、そしてカンテ。お国によって言葉が異なるだけで同じ深紅の花だ。ジャズを詠む俳人はたまにいる。その殆どは歯の浮くようなキザな作品ばかりでうんざりしていた。この句はそれが無いのだ。バイラオーラの句なのだ。

また彼女の記事「物をみる」に目が止まる。
文字通り見る事についての私的考察であるが、丁度ぼくも似た事を常に考えている。
視点は常に動いている。それを見失わない事。それに彼女は気づいている事がすこし嬉しい。

小鳥来るための額を空けておく こしのゆみこ

額。「がく」「ひたい・ぬか」。どう読むのか一瞬迷う。が、これは意図されたものだと気付く。俳人、絵描き、写真家であれば画竜点睛よろしく景に鳥を待つ視線だ。しかし「ひたい」となれば話は別だ。
たまに額に穴の空いているような人がいる。オカルトではない。人と話していてもどこか目が空虚で心が、無い。この人種はタチが悪い。なんでも呑み込んでしまう。ひとの好意も、笑顔も、不安も。そして作者はそちら側の人種のようだ。鳥はきっと呑まれるだろう。

光を進めばどんぐりを踏みつぶす 近恵

句会以外で近恵氏の句評をするのはこれが初めてである。心して拝読した先に掲句が目に突き刺さる。光の道を進む者に影は見えない。自らの影もまた、見ることはない。まして足下の木の実ごとき。センデロ・ルミノソという美しくも残忍な名を思い出す。理想、理念の前では無辜は簡単に踏み潰される。それを証明し続けてきたペルーの極左組織の名前だ。作者は知らずその矛盾に近づいている。俳壇という狭小な世界においてさえ、同じ事が繰り返される。光ある場所には必ず影が添い、そこを進む者は踏まれる者の事を忘れがちであるということを。

無駄なものはみ出してゐる水着かな 齋藤朝比古

人体に無駄なものなど無い。たとえ無駄毛と言えど理由があってそこにある。人は丸裸で生まれ落ち、装おうことを覚えた瞬間、無駄なものとそれ以外を規定する。ミニマルな装いである水着は何を守るものか。それは形にならぬ通念という禍々しい翳であろう。時としてそれは無駄なものよりも暗く、そして醜いものだ。

にほどりのみづうみのくにみゆきばれ 嵯峨根鈴子

「にほどりの」は琵琶湖に掛かる歌枕である。「鳰の海」とも言い、
「鳰の海や月の光のうつろへば浪の花にも秋は見えけり 家隆 (新古今和歌集)」などが有名である。関東に住むぼくには琵琶湖の深雪晴れという語にピンとこないが、実は滋賀県伊吹山はギネス記録を持つほど雪の深い場所である事を今回知る事となった。平仮名で描かれた音一つない深雪晴の向こうに寡黙なる琵琶湖の湖面が陽を浴びて煌めいている。ふと「世はなべて事もなし」と口をついて出てくる。

鶴を匿ふ甘いしみにがいしみ 高橋洋子

豆の木の中で最も長く目が留まり、呻吟させられた。「鶴の恩返し」なのか?いや、時代小説の一節か?鶴を匿うなどという大胆不敵を句にするとは、、中七以降の措辞もまた謎めいて目を惹く。

春分の日や暗室の赤き影 鈴木健司

ぼくの実家は写真屋であった。酢酸の匂い、赤い闇、流水の音、暗室の質感はこの時、覚えた。春分との取り合わせは好悪が分かれるところだろう。

本當の季重なり教へてあげる 上野葉月

むう、と言ったっきり、しばらくこの句を眺めていた。挑発的であり訓蒙的でもある。しかしそれが嫌味にならない魅力のある句である。

犀の目は犀に包まれ星流る 大石雄鬼

梅実落つ死者が欠伸をする度に 片岡秀樹

まんさくの薄き縫い目を野にほどく 川田由美子

パン屑の乾いて紙になる白鳥 楠本奇蹄

春雷や今生あやふくなりにけり しまいちろう

夜の貧困まっすぐに歩く雛まつり 田島健一

同じ素材からできている私と虹 月野ぽぽな

死角から嫌な人来る吹雪かな 峠谷清広

寝返りの女の果てや寒昴 中内火星

女子高生Fの鉛筆に似て青葉 中嶋憲武

行く春はシュガーまんべんなくかかる 三宅桃子

鬼籍から枯木めがけて入る人 宮本佳世乃

髪ほどくまんじゅしゃげ白まんじゅしゃげ 室田洋子

あやとりの川から橋へ冷ゆるなり 矢羽野智津子

枇杷を捥ぐ手にぼんやりとある明日 山岸由佳

わたくしを一網打尽のハンモック 吉田悦花

緑雨こそ音の檻なり猫の耳 吉野秀彦

とりあえず母のせいにして沈丁花 らふ亜沙弥

手首より輪ゴム次々鯊日和 石山昼妥

この三十名もの俳人の作品を通読して、なるほど、この人らは豆の木にとりどりぶら下がるブランコで遊んでいるのだと感じた。

たまに参集し自らの高さ、長さ、大きさ、そしてスピードでブランコを漕ぐ人々。時に全開で、時に俯向き涙を流し、そしてまた散ってゆく。しかしこの木は盤石ではない。なにせ破壊者ジャックがいつか降りて来て、天界を遮断するために斧を振り上げる日が来るのだから。豆の木が出来て四半世紀。今日もジャックは降りて来ない。

ぼくは今回、炎環の俳人柏柳明子氏から「豆の木 No.23」を献呈して頂いたのである。新世界を垣間見る機会を与えてくれた彼女に感謝したい。ありがとうございました。

里俳句会・塵風 叶裕

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