「やわらかな刺客」 (松野苑子著「真水(さみづ)」を読む)

「やわらかな刺客」
(松野苑子著「真水(さみづ)」を読む)

何を隠そう松野さんとは北大路翼出版記念パーティからの数年来の顔見知りなんである。ぼくのような悪相入道でも気軽に話しかけて下さり、はぐれ者ばかりのパーティでは地獄に咲いたマーガレットのようにそこだけ淡く輝いているような素敵なお方なのだ。

ありがたい事にそんな松野さんが句集「真水」を献呈して下すったのである。野良歌人のぼくは俳壇のエライさんを未だによく知らない。〜師系の〜センセイであらせられるぞよとか言われても、野良犬、にわかに困っちゃうのである。なので、手にした句集は不見転で読む。そのぼくをしてこの句集は数ページ進んだだけで只事ではないと半開きの口を引き締める程のチカラが、あった。

「さみづ」。「素水」とも書き、混じり物の無い水を意味する。あとがきには生命の源である水を意識しての句集名とある。俳句も水と同じように、命と真っ直ぐ繋がっているものだと彼女は言う。巖谷純介の装丁は淡いピンクを基調とし、女性らしさを感じさせるが、表紙タイトルの「真水」の文字は只の記念碑的句集ではない、彼女の句眼の確かさを予見させるものだ。

通読して驚くのはこの句集、どこでも息継ぎが出来るくせにどこにも弛緩する場所がないのだ。ぼくは句集は川だと思っている。どの句集でも行間、章間に淀みが存在し、クレッシェンド、デクレッシェンドの繰り返しに濃淡があらわとなるものだ。
巧い編集は敢えてそこへアイポイントを設けて弛緩を防いだりするものだが、この句集には淀みがない。逆順でも読んでみたのだが、どこから開いてもこの句集には隙がない。なるほど。この句集は川ではない、豊満な水球そのものなのだ、とやっと句集名を理解し、すこししてから粟立ったのである。こりゃとんでもねえ本だぞ。と。すこし句を拾ってみる。

鳥籠の中の冬日や卓に鍵

鳥籠は社会的、精神的束縛のメタファーである。しかし籠には柔らかな冬日が差し、自由の象徴である鍵がそこに無造作に有る。不在の籠は作者の自由なる不自由のありかを表している。

手袋が欠伸のやうに置かれあり

紳士淑女のプロトコールには手袋一つの扱いも厳密に決められている。それを破りポカンと口を開く手袋には持ち主が何かに気を取られている様を表している。それは不測の事態であってはならず、できれば美しい人、物との邂逅であってほしいものだ、と思う。

カナリアの糞の草色春祭

春祭の浮かれを有り体に詠めばつまらなくなる事必定である。しかしてここにカナリアの糞を合わせるとは恐れ入る。しかし作者の描く糞は美声儚いカナリアのそれなのである。こんな品のある糞を見たのは生まれて初めてでドギマギした事を白状する。

石とれば川蜷に水奔りけり

この句を見て、ああこの人は正統なる俳人として歩んで来られたのだと確信した。俳人の眼は変なところが歪み、変な場所がボヤけ、とんでもないところに焦点があったりするものだが、対象との距離感、冷静な観察眼、平明でありながら過不足の無い表現。角川俳句賞受章者相手に失礼千万な話であるが、ぼくはこの句に見惚れてしまった。

モーターボート海のファスナーぐんぐん開く

モーターボートをファスナーに見立てるとは。簡単なようでいてなかなかできるものではない。規則正しいエンジン音を立て、明鏡のような凪に刻む航跡のなんと美しい事だろう。ハの字を描く波紋はさながら一流メゾンの職人の繊細なる手指で仕立てられる服の動きのよう。この句は動画の視点を獲得しており、驚かされる。

苜蓿透き通るほど濡れにけり

作者はドイツに在していた事があると言う。
この景に行ったことの無いドイツの原を重ねてしまう。露にしとどに濡れる苜蓿は清冽な朝の気にシンとしている。聴こえるのは野鳥の声と自らの呼吸音と苜蓿を踏む足音だけだ。「尊い時間」とは濁りの無い只事の世界なのである。熱いコーヒーとパン、新鮮なバターが欲しくなる。

オルガンはガリラヤの風水澄めり

ガリラヤ(Galilaia)とはヨルダン川中域の淡水湖で新約聖書にここでキリストが多くの奇跡を行った伝道の主要舞台なのだ。作者はキリスト者であろうことは想像がつく。教会のオルガン演奏にこうべを垂れる時、そこにまことガリラヤの乾いた風が吹くのだ。
誤植「ガラリヤ」に訂正線が引かれ、手書きで「ガリラヤ」と書いてあるのが目を惹くが決して嫌らしく見えない。これは手書きの「ガリラヤ」があってはじめて成る作品であるとぼくは確信する。これでよいのだ。

ここではたった七句を引いただけだが、選ぶのに大変苦労するほど良句が並ぶ、掛け値無しの良書であったことは特筆すべき事だ。
この本には背中がない。どこを切り取っても読者に対面してくれる。これは皆が読むべき本だ。ぼくはこれから長い時間を掛けてこの本と対峙するんだろうな、と薄々感じはじめている。

松野苑子はやわらかな刺客だ。花のようににこにこ咲みながら容易に人を斬ることができる。ぼくは口をあんぐりしながら彼女に刺し貫かれてしまったのである。

※ この良書を献呈下さった松野苑子さんに大いなる敬意と感謝を申し上げる。今後更なる活躍を願ってやまない。

里俳句会・塵風・屍派 叶裕

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?