書きたくない、という弱音について書いておくとすれば

俺にとって書くことは、負けるとわかっている戦いだ。

山ほどのことを書きたいのに、あるいは何一つ言葉にしたくないのに、いつも、ごく一部を不完全に書くことしかできない。俺が書くことでそれは、なんかぱっとしない、こじんまりとした記述として世の中に知れ渡ってしまう。言葉にしなければ伝わらないのはわかってるけど、言葉にしてしまえば可能性は失われる。もっと別の出会い方があったかもしれないのに。

平田オリザが、自身の創作への姿勢をよく

伝えたいことは何もない、表現したいことは山ほどある

と説明していたけど、俺も、気持ちとしてはそういうスタンスで文章を書いている。つもり。伝えたいのではなくて、見えているものを記述したい、という。

それは技術書を書くときでさえもそうだ、とさいきん気付いてきた。技術的なことをわかりやすく伝えることにあまり興味がない。わかる、の向こう側に果てのないわからなさがあって、それが何なのかはわからないけど、その混沌をこそ読む人の眼前に突きつけたい。

なので、わかっていることをわかるように書くのはとても精神がすり減る。わからないことをわかっているふりをしながら書くのはなおさら。いちいち、「わかりやすさに魂を売りたくない!」みたいな拒絶反応と戦って、書いたら書いたで冒頭の敗北感を味わうことになる。とてもコスパが悪い。

わからないものを、わからないままに書きたい。

未完成をデザインしたい。

思い返せば、そういう欲望をかたちを変えながらずっと持ってきた。もっと自由に書けるようになるためには書きまくるしかないけど、そんな未来はまだまだ遠すぎて、ちょっと今は敗北に足を踏み出す勇気が湧かない。

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