【触れたもの_33】まなざしの記憶 だれかの傍で

『聴くことの力』に続くような形で鷲田清一が記したのが、この『まなざしの記憶 だれかの傍で』だ。

冒頭、人間の想像力とは何かを考える上で非常に示唆に飛んだ文章がある。

"眼の前にあるものをきっかけとして、眼の前に現れていない出来事や過程を思い描くこと、あるいはそれを論理的に整合的に問いつめてゆくこと、そういう不在のものへの心のたなびきがここでいう想像のはたらきであり、その意味では、科学にも政治にも、あるいは芸術や思いやりにも、いきいきとした想像の力がどうしても不可欠なのだ。"

ないもの、その不在に何かを想う。それこそが想像する、ということだと鷲田はいう。いま、目の前に何がないのか。あの人のもとには一体何が欠けているのか。そんなことを考えることが他者へ向けた想像をするということに他ならない。

"<存在の世話>を、いかなる条件や留保をつけずにしてもらった経験が、将来じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの<信頼>を失わないでいさせてくれる。"

人は生まれた時、誰かの世話にならずに生きることなどできない。そんな体験を<存在の世話>と呼び、そのような経験があるからどれだけ絶望したとしても死なずにいられる。生きている理由ではなく、死なないでいる理由という捉え方の転換にこそ、前のめりでなくとも懸命に生きる人の姿を見る。

「<わたし>の存在は他者に負う」と鷲田はいう。他者のまなざしがなければ、自分という存在を意識することもないのだ。

個人主義の流れの中で、人と人とが支え合うことは幻想のようにも思えてしまう。けれども、根本を探っていけば「思いやり」といった生ぬるい言葉ではなく、合理的な選択肢の一つとしてそのような生き方が見出せるのではないか。


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千葉雄登

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