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好きなことを、好きなだけ

高知県立牧野植物園に行ってきた。

牧野さんは高知県出身の植物学者で日本の植物学の父と呼ばれている。1500種以上の植物に名前を付けて分類をして、日本の植物学の基礎を築いた人である。私は、ほぼ日手帳のカバーで牧野さんのことを知った。今期の朝ドラは牧野さんがモデルの話なんだけど、最初のころに「この花の名前を知りたい!!!」と幼い牧野さんが叫ぶシーンがあった。今や気になった植物はGoogleで画像検索をすれば教えてくれる世界である。スマホが普及してなくても、植物図鑑で調べることができた。だけど、その頃(1800年代後半)はそれがどれだけ大変なことなのか、私はあんまり考えたことがなかった分、そのセリフにとても心を掴まれた。

そんな牧野さんの出身地につくられた植物園に行ってきた。

園内はとてもきれい。いくつかある建物も木を基調とした造りで、植物ととてもマッチしている。牧野さんが名付けたものや高知のものを中心にたくさんの植物が生きている。(ガイドブックによると3000種以上!)

今はやはり紫陽花のシーズンのようでたくさん咲いていた。あまり見たことない種類もたくさんあった。

きっと春はもっときれいなんだろう、そんなことを考えながら園内を歩く。月並みだけどマイナスイオンをものすごく感じて、息を深く吸える感覚がある。

園内を散策していると温室がある。

温室の中には、あまり馴染みではない植物がたくさんいた。私にとって温室にいる熱帯の植物はちょっとアウェーである。ひとつひとつ見て行った先にサボテンと多肉植物がいたとき、私は心の底からホッとしてそんな自分に驚いた。


温室の中を歩いていると、やられた!と思うナイスな展示があった。

これはパラグアイオニバスという水生植物の一種なんだけど、水の張った池の底がガラスになっていて、下から見上げて、葉脈をじっくり観察することができる。つまり、これは旭川動物園やサンシャイン水族館の空飛ぶペンギンと同じ仕組みなのである!!!水族館や動物園では下から動物を見上げる展示って結構あるけど、植物園ではなかなかなくない?と私はテンションが上がりはじめた。

ほかにも、素敵な展示があった。
「ふむふむ広場」では、植物に実際に触れることができたり、葉を揉んで香りを楽しむことができる。

資料館の中にはひとつ水槽があり、水草が植えられていた。なんの展示かというと、光合成による酸素の発生が目で見てわかる展示である!水の中の泡(酸素)によって、目に見えない酸素という存在を体感することができる。(資料館の中は写真NGだったので私の拙い説明でわかってほしい😂)

そして、資料館に赭鞭一撻しゃべんいったつが刻まれた大きなケヤキの板があった。赭鞭一撻とは、牧野さんが植物学を志す上で考えた15の勉強の心得だった。

一、忍耐を要す(我慢することが必要である) から始まり、教訓としてよくありそうなものもあるのだけど、いくつか度肝を抜かれたものがあるので紹介したい。

九、りん財者は植物学たるを得ず(植物学者はケチではいけない)
以上述べたように絶対に必要な本を買うにも、(顕微鏡のような)器具や器機を買うにも金が要ります。けちけちしていては植物学者になれません。

十一、植物園を有するを要す(植物園が必要である)
自分の植物園を作りなさい。家から遠い所の珍しい植物も植えて観察しなさい。鑑賞植物も同様です。いつかは役に立つでしょう。必要な道具ももちろんです。

十五、造物主あるを信ずるなかれ(神を信じてはいけない)
神様は存在しないと思いなさい。学問の目標である真理の探究にとって、神様がいると思うことは、自然の未だ分からないことを、神の偉大なる摂理であると考えて済ますことにつながります。それは、真理への道をふさぐことです。自分の知識の無さを覆い隠す恥ずかしいことです。

いや、すごくない・・・?牧野さんは植物学に励みすぎたあまり、生活はかなり貧しく、奥さんと実家にかなりの苦労をかけたようである。だけど、ケチじゃだめだ!植物園が必要だ!って志を持って、植物学に励んだその姿勢はリスペクトしかない。そして、自然についてわからないことがあったときに神様に逃げるな!とも言っている。たしかにその通りだけど、そんなことを20歳前後で心得として書けるというのは本当に脱帽である。

なのに、めちゃくちゃキュートなおじいちゃんなのである。

私は牧野富太郎に心を奪われてしまった。


園内のカフェで、一休みをしながら自問自答する。

まずは、植物が好きであるということを知った。そして、何より(広義の意味での)博物館が好きなんだと今更ながら思った。このあたりはこれから深掘りしていきたい。

そして、牧野さんに思いを馳せた。
どれだけ貧乏でも、周りの人から反対されても(家業が造り酒屋だった)自分の好きなことをする。もちろん壮年~晩年期には認められることや評価されることもあったと思うけど、植物学の道を志したとき、そういうことは一切考えていなかったと思う。(ちょっと話は違うけど、生きている間には絵が一枚も売れなかったゴッホがあんなに大きな絵を何枚も何枚も書いたことにも通ずるものを感じた。)ただ、好きだからやる。それは当たり前のようでいて、ものすごく尊くて、勇気がいることだ。それをやりきって、こんなに笑顔で、かっこよすぎる。そんなことを思いながら、赭鞭一撻が書かれたノートと牧野さんがにっこり微笑んでいるポストカードを買った。

帰り道、ベンチに座ってバスを待つ。
山々の景色を見ながら、らんまんで牧野さんが植物学者を志すと決めたときに「何者かになりたい」と叫ぶシーンを思い出す。やっぱり、私も何者かになりたい。そう思ったら、目の奥が熱くなった。

何者かになりたい、だけど、今の私は何物でもない。
これは最近の私の考え事のテーマだった。そして、その今は何物でもない私を受け入れることが必要なんだと思っていた。私は私であり、何者でもない。そうやって最近の日々を過ごしていた。だけど、やっぱり何者かになりたい。それはどう足掻いても、魂の叫びだと思う。

何者かになりたい、だけど、今の私は何物でもない。
だけど、何者にもなれないと決まったわけではない。
牧野さんにとっての植物のような、私にとっての好きなこと。
まずはそれを見つけなくてはいけない。
前は見つからない現実に目の前が真っ暗になっていた。
だけど、今は少しずつ近づいている確信があるから、焦らず怠けず日々自問自答をつづけていく。

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