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鬼のメカニズム

れいゆ大學❸❼ 鬼のメカニズム(芸術家+資本家= 文化 ←この文字にモザイクをかけよ)


荒川修作とマドリン・ギンズ「意味のメカニズム」を観に、セゾン現代美術館へ行った。意味の構造を追求する作品群だ。


山の上にあるセゾン現代美術館へのバスは、軽井沢駅から乗ったのだが、たくさんバスがあって難しくて最初よくわからなくて、でも「鬼押出し園」という謎のランドに行くバスに乗れば、セゾン現代美術館の最寄のバス停「千ヶ滝温泉」に行けることがわかった。

「鬼押出し園」という、鬼を押し出す、鬼が押し出されている、まったくよくわからない、シュールなギャグ漫画のような奇妙な、なんというかディズニーランドの対極のようなランドが、荒川修作+マドリン・ギンズへの目印になってくれた。

いったい、「鬼押出し園」とは、何なのか。どうやら鬼の村みたいなアミューズメントパークではなく、溶岩がたくさんあるところみたいだ。迷路みたいになっている鬼の村で、鬼を押し出して川や池に落っことすゲームがある遊園地みたいなところではないようである。

溶岩だらけの地形を、鬼が棲む地獄に喩えているのだ。

しかし、溶岩が凄いからといって、なぜそれをランドに。商魂逞しいランド創業者だ。


この謎は、戦後のドサクサの中で滅茶苦茶を含むやり方で日本の経済界の支配者の一人となっていった堤康次郎が関係しているようである。堤康次郎は、セゾン現代美術館の経営の源流であるセゾングループ(というより西武グループ)の創業者だ。戦前は政治家で、戦後は経済界のフィクサーにのし上がっていった。戦後日本の土地を豪快にどんどん所有していった堤には、モノポリーゲームに描かれるシルクハットのおじさんのような上品さはまったくない。


空襲の焼け跡を見やり、所有者がわからない土地を自分のものにしたり、世界をゲットしていく。そうやって、たとえば、のちにセゾン現代美術館が建てられる軽井沢の山を、溶岩がたくさんある鬼押し出し地域を、そして西武鉄道を、池袋駅ビルの西武百貨店を、池袋サンシャイン60を、クレジットカード会社を、数え切れない愛人たちを、次々に、堤は。

堤の一族もまた、吸収合併が繰り返される不況の中で、そごうと、パルコと、セブンイレブンいい気分と、この日本と、資本主義社会の虚空に、生活コンテンツを錬金術的に発生させ、そんな中で、荒川修作やマン・レイのような芸術家たちの作品を所蔵していき、そんな、堤一族だ。

資本主義社会で、土地はいちばん凄い。土地を手に入れれば、それは地球の一部の支配者のようだ。なぜ地面に値段があるのか。本来はそれは間違いであり、文明が進むほど人間の不平等が作られていくという表れである。土地は神様のもので、人間が分けたり買ったり売ったりはしてはいけないはずだ。アイヌの人はいまでもそう考えるだろう。  


セゾン現代美術館への道のりの途中に、堤康次郎の銅像があった。草の野原があり、突如現れる、不適な笑みの堤である。この山は彼のものなのだ。

その隣に、お稲荷様のお社があった。千光稲荷神社という霊験あらたかな名前だ。狐さんが二人いる。堤と神社は横に並んでいて、同じ方角を見ている。

あろうことか、堤康次郎の銅像は高い台座に立っていて、その稲荷神社よりも大きくある。神より権威があると言いたいのか。戦前は保守政治家、戦後は資本主義の申し子として生きた堤は、衆生を守る稲荷信仰と対等で、いやそれどころか、高みにいると言いたいのか。

美術館を目指す人たちに対して、旧セゾングループおよび西武グループは、「堤康次郎は神である」と主張しているのだ。


昨今、暗殺された安倍晋三を祀る神社を建立しようという動きがある。もともと、東郷平八郎を祀る東郷神社があるし、神道における神はアブラハムの宗教の神とは違い、さまざまなキャラクターであり、純粋な正義や愛ではないので、安倍神社じゅうぶんあり得るかもしれない。

堤康次郎も安倍晋三と同じく、自民党の代議士だった。堤の銅像が稲荷神社の隣に、そして高い台座に立っていることは、堤康次郎を祀る神社として思う人も多いだろう。堤は自分自身を祀る神社をつくりたかったのかもしれない。私は稲荷神社に手を合わせ、堤には手を合わせなかったが、堤にも手を合わせる人はおそらくいるだろう。


荒川ギンズの作品や思考は、都会で見てもらうべきものだ。都市生活者や、芸能界や出版界や美術界の人々が見るべきだ。サブカル的な表面的な事象を取り替え組み替えているだけの連中こそ見るべきだ。しかし、そこまで行くのにいくらか難しい山の上の美術館にある。自然の中にある巨大な美術館には、簡単には行きにくい。


社会に疑いを持つ芸術家たちやあるいは戦争の悲しみを表現した芸術家たちの深刻な思考の軌跡が、彼らとは真逆の価値観と生き方である資本家たちのコレクションとなる。荒川ギンズが意味の構造(メカニズム)についてたくさん考えても、戦後の経済フィクサー一族のコレクションになる。

「意味とは何か」と言っているのに、資本主義という「意味の誤魔化し」によって展示は成り立っている。

「意味のメカニズム」は「堤のメカニズム」もしているが、「堤のメカニズム」は「意味のメカニズム」をできない。しかし、「意味のメカニズム」は「堤のメカニズム」によって、美術館で立派な展覧会がなされている世の論理である。

ただし、荒川修作は「こんな展覧会、くだらねえ。こんな美術館は壊しちまえ」と言うだろう。


宮崎駿は鈴木敏夫がいなければアニメーションを全国の映画館で大々的に上映できない。彼が敬愛するチェコやロシアのアニメーション作家のように、ラピュタ阿佐ヶ谷で上映されていたのだ。知る人ぞ知る宮崎駿作品特集のようなタイトルで。

そして鈴木敏夫は電通や博報堂がいなければ、スタジオジブリに大金を持ってこられない。それが資本主義と芸術の関係なのだ。

吉本興業に所属していたら天下を取っていたタレントはいくらもいるはずだ。それを選ばないのもまた芸の道。人生は選択だ。


お金持ちは農家から土地を支配したから、鬼でもある。そうした資本家は、芸術家・芸能人・水商売・娼婦・宗教家・放浪者などのやくざ者たちにお金を渡し、日常を生きる素人衆の世界に、非日常が示される。

それが、鬼に押し出されるということかもしれない。


鬼が押し出し、神の子踊る。

火山の中で燃えているマグマが地表に噴出したとき、それは溶岩と呼ばれる。

それは、天界からの、こぼれ雲。


セゾン現代美術館から中軽井沢駅へ行くために千ヶ滝温泉の前でバスを待っていると、さるが何人もあらわれた。

さるたちは、資本主義の外にいながら、温泉という文明を利用していた。お金も払わないし、タオルもいらないし、性別の悩みも関係ないし、温泉という言葉も知らない。たまの「さよなら人類」。


荒川+ギンズは、意味のメカニズムを終えたあと、天命反転へと展開した。"死ぬのは法律違反です"



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