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安室透・考 (それはアニメじゃない)


れいゆ大學 ❸❺ 安室透・考 (それはアニメじゃない)


「名探偵コナン」の安室透が、映画「ゼロの執行人」のクライマックスで「僕の恋人はこの国さ!」と言う場面がある。

これは明治から戦後にかけての思想家、徳富蘇峰の「俺の恋人誰かと思ふ、神の造りし日本国」から来ているだろう。


思想家 徳富蘇峰


徳富蘇峰は様々な思想の変遷を持つ巨人だが、のちの時代、戦後高度成長を経て物質的社会になると、「俺の恋人は日本」というのは右翼らしい考えとなった。三島由紀夫とともに自決した森田必勝が好んだ和歌としても知られる。徳富蘇峰は右翼ではないし、戦前の右翼にあたる亜細亜主義者と戦後の右翼は趣も違うが、時代状況の変遷によって、ひとつの心情、情景にまつわる視点が変換されたのだ。

森田必勝と三島由紀夫


しかし、安室は公安警察である。

警察とは国民に思想を持たせないための機能である。その中枢が公安警察と言える。彼らは無思想なのではなく、思想を持たせない思想だ。警察にとっては右翼も左翼もアナキストも宗教もすべて監視する。よく勘違いされているが、右翼もまた左翼と同じように反体制である。警察が取り締まるのは国民の思想の乱れや偏りであり、それを法律と監視で制しているつもりなのだ。それが国家の思想と言える。

警察庁は内閣の下にある組織だが、警察と自民党は微妙に異なる性質を持っている。事実上は難しいが、共産党でも何でも政権を取って内閣を組織することは法律上可能なのである。だがそうすると、共産党政権の下に警察庁や法務省が存在することになるので、非現実的だ。日本共産党は党首であっても公安警察や公安調査庁の監視対象である。


ハーフとして生まれ幼少期に外国人と揶揄されアイデンティティが揺らいだ安室は、警察官、それも公安警察になることで、自らを「日本国家」と同化させた。彼の頑なさは、生まれ持った金髪を黒くしたりしないところにある。ファッション右翼なら、地毛が黒でなかったら急いで黒く染めるだろう。しかし前述の通り、警察は右翼ではない。

安室、いや、「フルヤ」は、公安警察としても歪な存在なのである。その右翼的心情は公安警察としては失格なのである。だから彼は、警察らしからぬ人情を持ち、喫茶ポワロにいることは決して潜入捜査のためだけではなくなっている。コナンたちとのコミュニケーションを、彼もまた子供のように心底喜んでいるのだ。

しかし、目的のために手段を選ばない安室は、やはり公安警察らしいのである。三島事件が顕著だが、右翼は自らの行動にロマンを見出し、物語を作ろうとするからである。安室にはそれがない。


虚無か純粋か


しかし、右翼は死んだ。都心の駅前の街宣車で大声で迷惑なコスプレおじさんたち、あれが右翼の成れの果てである。若手右翼で著名だった山口祐二郎は、じつは途中から公安のスパイだったことが2021年に明かされた。重要事件の容疑者でもあり警察への非協力を貫いてきたはずの鈴木邦男は警察病院に入院していた。かつてなら、山上徹也の安倍晋三暗殺のテロルは右翼がやるようなことだった。それを元自衛官とはいえ一般人である山上が実行したのだから、右翼は終焉したと言える。

あるいは山本太郎が天皇に書状を渡したり、国会で乱闘したりするのも、(彼自身は極左と揶揄されるが)どちらかといえば昔の《弱きを助け、強気を挫く》戦前右翼のような態度だ。

そして左翼も同様に滅んだ。市民運動デモやSNSなどで人々は「左翼や右翼と一緒にされたくない」という態度を取るが、結局はプチ左翼、プチ右翼である。


現実においてイデオロギーが形だけのものとなったので、「国際秘密組織(黒ずくめの組織)」と「子供の姿をした異能者(コナンたち)」のほうがむしろリアルである。つまり「名探偵コナン」の世界には右翼も左翼もほぼ存在しないのだ。日本赤軍残党もいなければ、大日本愛国党も存在しない。物語の中で、警察庁警備局、警視庁公安部、FBI、CIA、MI6と、彼ら諜報員たちが探っているのは専ら黒ずくめの組織である。

だから安室透は、警察的性質と右翼的性質の両方を担っている。一方で、”バーボン”であることは、それほど彼にとって重要事ではない気がする。

結果、安室透はどこまでもイノセントな少年であり、それゆえに人を殺すことが平気でできる。そこに哀しみがあるが、その哀しみも彼が公安警察というスパイであることによって、無化され、他者は同情できない。

だからコナンは聞いたのだ。「安室さんに恋人っているの?」それに対する答えが、「僕の恋人はこの国さ!」だった。米花町に沈む夕暮れの美しさでさえ、安室の心の裡に横たわる虚しさをどうすることもできない。

新たな思想を持たないというポリシーが、彼を永久に警察たらしめる。それは逸脱者を疎外し糾弾する日本人の大衆心理にも似ているかもしれない。


だが、彼が普通の警察ではなく公安警察になることを選び、部下がいる立場にも関わらず、黒ずくめの組織への潜入捜査を担当しているところを見ると、彼は国民を監視する警察というあり方に無意識に疑いを持っているのかもしれない。喫茶ポワロの窓の隙間から吹く風が、彼を普通の人間たらしめるときが来るのではないだろうか・・と考えてしまうのは彼が漫画やアニメのキャラクターだからである。実際の公安はただひたすら恐ろしいだけだ。

「ゼロの執行人」では、実質的な部下である警視庁公安部の風見が、夜が迫った夕暮れの公園で安室を「フルヤさん」と呼ぶ。そのとき、まさに「アニメじゃない」。降谷と字を変えてはいても、音の上では同じだ。自我を日本国家と同化させた男は、フルヤと呼ばれており、それを演じているのもフルヤである。

そのとき、まさに機動戦士ガンダムZZの主題歌「アニメじゃない」が響き出す。古谷徹とアムロ・レイを再分解したのが安室透と降谷零であることが「アニメじゃない」の啓示である。

「アニメじゃない」


しかし、それ以上に最重要な「アニメじゃない」が14年前に発生しているのだ。安室透は、迷宮なしの「名探偵コナン」において、迷宮入りの問題によって降板せざるを得なかった《名人・神谷明》と入れ替わりに登場した人物なのである。

安室のアニメ初登場は、古谷徹をさらに上回る大看板声優、神谷明がやむなく降板した3年後だ。安室が弟子入りした毛利小五郎は、小山力也による小五郎なのである。

「名探偵コナン」は次第に黒ずくめの組織との攻防によって、《変身の物語》へと激化していった。ベルモットと工藤有希子の変装術や阿笠博士の変声機によるスパイ合戦。さらには何のアイテムも使わずに声を自在に操る怪盗キッドの偶発的な登場もあり、もはや誰が誰の本物で偽物か混乱していくストーリーが進行する中で、ふと気づくと毛利小五郎の役者が変わっているというのが、まさに「アニメじゃない」である。


安室が紛れ込んだ追憶の空間に坐しているのは、2009年までの毛利小五郎である。安室がおそるおそる近づくと、彼の首裏には無数の針穴がある。それでもまだ麻酔の免疫ができていないほど彼の筋肉は強靭でもある。

阿弥陀仏となった眠りの小五郎の首から、まばゆい無量光が放たれる。

法律違反をすることで法律を国民に制する、そんな公安警察の矛盾の人生を、阿弥陀小五郎は過去現在未来を通じて宇宙のエナジーで包み込むだろう。そこは思想のない場所、法律も監視もない場所。あたたかい、しあわせな地平。

安室透のアイデンティティは、ここに補完される。


安室透と降谷零



※最後に、「名探偵コナン」はじつは警察を賞賛している作品ではない。テレビアニメで高木刑事が警察得意の卑怯な逮捕手段である「転び公防」をし、それをコナンが「それで逮捕しちゃったの?」と一瞬だけ指摘した細かいシーンがあった。そもそも眠りの小五郎がいなければ難事件が解決できない捜査一課は、じつに平凡な連中として描かれている。「名探偵コナン」は警察をキャラクターや舞台装置として使っているだけなのだ。彼らに対して、安室の非現実な能力の高さは、公安警察が普通警察と違って素性を隠している忍者らしさを表現している。


探偵になる前の毛利小五郎
推理はダメだが拳銃の名人
「相棒」でも「踊る大捜査戦」でもなく「太陽にほえろ!」の世界だ

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