「継投ミス」という言葉(訂正版)

どうもこんばんは、遊撃です。

昨日、同じタイトルで投稿しましたが、伝わりにくい部分があったので、少し書き直してみました。読んでいただけると幸いです。


現在、高校野球は秋季大会の真っ只中。大学野球も4年生にとっては最後となる秋季リーグ戦が開催されている。プロ野球ではもうすぐCSが開始。社会人野球も日本選手権が控えている。

いわゆる「球秋」が到来している。

私も毎日、沢山の方のツイートでいろんな情報を得て、楽しませていただいている。

そんな中で、夏頃から非常に気になっている言葉がある。それがタイトルにもある「継投ミス」である。

一般的にこの「継投ミス」は、投手交替を行った結果打たれてしまった、という「結果」を指す印象の強い言葉である。しかし、本来この「継投ミス」という事象が起こるのは、投手交替を行い打たれてしまった、といった「結果が出たタイミング」ではなく「継投そのものを行ったタイミング」であると私は考えている。

結論から言うと、私はこの「継投ミス」という言葉が、多くの人にとって前者の意味で取られ、最近あまりにも軽く使われ過ぎていると感じている。


なぜか。理由は大きく2つある。


1つ目は、そもそも継投に「正解」はないからである。
首脳陣は継投という局面において、投げている投手の球威やキレ、球数、疲労度合や打者との相性など、様々な要素を考慮した上で、交替するのかしないのか、誰に交替するのかを考える。しかし、それはあくまでもその場面における「最適解」であり「正解」ではない。もし「正解」があるのなら、その決断の上に失敗が起こることはないはずだ。野球はそんなに単純なスポーツではない。

「正解」はないが、首脳陣は少しでもチームに良い結果をもたらすために、その場その場における「最適解」を考える必要がある。

その判断が明らかに「最適解」でないのであれば、継投を行ったタイミングで間違いがあるため、それを「継投ミス」と呼んでも構わないと思う。しかし「最適解」を採った上で打たれたものを「ミス」と表現するのはいささか間違っているのではないだろうか。それは「ミス」ではなく「実力差」と表現する方が正しいと思う。

この夏、甲子園でもそういう場面に遭遇した。

選手権準々決勝、大阪桐蔭-浦和学院の試合で、6回表に浦和学院の森監督が渡邉投手から永島投手にスイッチした場面があった。この交替後、大阪桐蔭の打線が永島投手に襲い掛かり、結局永島投手はアウトを一つも取れずに降板。替わった河北投手も1点を失い、結局1イニングで6点を取られ、試合を決定づけられた。

この場面で、Twitterでは沢山の人が「継投ミスだ」と呟いていた。しかし、自分はそうは思わなかった。

渡邉投手は球数が80球を超えて疲れが見えており、大阪桐蔭打線は2巡目以降、ヒットにならずとも捉えた打球が多かった。その打線の4巡目を迎える前のタイミング。マウンドへ送ったのは右の本格派である渡邉投手とは反対の左の技巧派。この判断、現地で見ていた私は「最適解」だと感じた。

確かに、永島投手をマウンドへ送る前に十分な準備をさせることが出来ていたのか、イニングの頭からじゃなくて良かったのか、など少しずつ「ミス」と呼べる要素もあったかもしれない。ただ「継投そのもの」の判断は間違っていなかったと私は考えている。つまり、大阪桐蔭と浦和学院の力の差がこの場面で出たのだ。

「打たれた・抑えた」はあくまでも結果。首脳陣が継投を行ったタイミングで「最適解」を採っていたのであれば、仮に悪い結果になったとしてもそれは「実力差」であり、結果が出たタイミングから遡って「継投そのもの」を責めることは出来ないはずだ。


2つ目は、監督にしか分からない「フィーリング」があるからである。
例えば、ある女性がふとした瞬間に神妙な表情を見せたとする。その表情の意味を、初対面の男性と、その女性と付き合って5年になる男性とであれば、どちらの方がより正確に汲み取ることが出来るだろうか?答えは考えるまでもない。

この例のように、ずっと見ているからこそ、一緒にいるからこそ知っていることや、それによる「フィーリング」も判断においては重要な要素となる。監督やコーチの判断はすべてが理詰めというわけではなく、時には第六感(いわゆる勘)も必要だ。

その判断における「フィーリング」を左右するもう一つの要素は、試合の「流れ」だ。

よく球場に足を運ぶ人なら分かるかもしれないが、選手たちの動きや球場の雰囲気から「この回、点が入るな」と感じることがある。これはテレビで見ていても絶対に分からない。球場で見ていると、試合の流れが掴めるのだ。

なぜなのか。より多くのものが見えるから、という答えでは足りないだろうか。見えないと分からないし、感じるものも感じない。となると、監督は一番近くで選手たち、そして試合を見ているので、その雰囲気や流れは誰よりも分かっているはずだ。あまりに主観的になりすぎて試合を俯瞰できないのはダメだと思うが…(割とこういう監督が居たりする)

そういう「フィーリング」は、監督やコーチなど決断を下す人間にしか分からないものである。1996年の夏の甲子園での「奇跡のバックホーム」なんかはその典型例だ。一番近くで見て、感じて、下した決断がもたらした結果に対して、外から見ている人が結果の部分だけを見て簡単に「ミス」と呼んでしまうことに、私はやはり疑問を抱いてしまう。


ここでもう一度押さえておきたいのは「継投ミス」という事象が起こるのは「結果が出たタイミング(打たれた!失敗だ)」ではなく「継投を行ったタイミング(それが最適解だったのかどうか)」であるということだ。

その判断には近くで見ているからこそ分かる「フィーリング」が内包されている。また、その判断が「最適解」であれば、仮に悪い結果になってもそれは「実力差」であり、結果が出たタイミングから遡って「継投そのもの」を責めることはできない。

外から評価をするのは自由だ。また、その場面における「最適解」でなくても、つまり継投のタイミングでは「間違い」だったとしても、良い結果が出る場合もある。こういった場面などでは、ある程度結果(抑えたから成功だった)でしか語れない部分があることも事実である。

ただ、やはり私は、上で述べたような継投に至るまでのプロセスを軽視し、継投の結果しか見ていない人があまりにも多すぎると感じている。


継投は難しい。本当に難しい。なぜなら「正解」がないのだから。「最適解」が打たれるときがあれば、「最適解」じゃなくても抑えるときだってある。タイミングが一つ違えば試合を大きく左右するし、首脳陣のフィーリングが外れるときもある。これは継投に限らず、野球の様々な場面において言えることではないだろうか。

しかし、だからこそ野球は面白い。

そんな野球の面白さ、奥深さをこれからも追究していければな…と思っています。最後まで読んでいただいてありがとうございました。意見や感想など、いただけるとありがたいです!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?