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3.11に思うこと~女川町を訪れて~

東日本大震災から今日で8年になる。復興は進んでいるものの、まだまだ道半ば。現在も2500人以上の行方が分かっていない。

この日、人々は何を思うのだろうか。

墓前で手を合わせる者、地震発生時刻である14:46に黙祷を捧げる者、テレビや新聞で改めてあの災害を振り返る者、時の流れの早さに驚く者…様々だろう。

ただ、少しずつ、ほんの少しずつ、人々の心の中にあるあの災害の記憶が、津波の映像が、色褪せ始めているような気がしている。

被災地にて

昨年の10月、私は津波で甚大な被害を受けた宮城県の女川町を訪れた。目的は「東日本大震災」を肌で感じるため。震災当時愛媛に住んでいた私は、津波はおろか揺れすらも感じなかったので、どうしても震災を「自分のこと」として感じることが出来なかった。犠牲になった方々の多さや被害の大きさ、それらと自分の中での「東日本大震災」が合致していなかった。行けば何かが分かるかもしれない、感じるものがあるかもしれない。その思いで、被災地に足を運んだ。

(写真は女川駅。津波で甚大な被害を受けたあと、以前より200m内陸側に移動して2015年3月に開業。1階では震災関連資料の展示や、特産品の販売がされている。温泉施設も併設。)

(当時は電気も何もなく、情報を得る手段もなかったそう。それは新聞社も同じで、津波の影響で輪転機が稼働せず、新聞を発行できる状況ではなかった。被災者の不安が日に日に増していく中で、「紙とペンさえあれば」と石巻日日新聞の記者が立ち上がり、地震発生から3日後の14日に壁新聞を作成した。その壁新聞の現物が女川駅の1階に展示されている。)

女川駅はJR石巻線の終着駅。仙台駅を出発し、海岸沿いを走る車内からは露骨なまでの「平地」が見える。途中、石巻駅での乗り換えを経て、2時間30分ほどで女川駅へ到着した。10月の昼間ということで、さほど寒さは感じなかった。風は強く、ほんのりと海の香りが漂っていた。どこかで金槌が杭を打つ乾いた音が響く。平日だったので人は多くなく、金槌の音がしないと、波の音が聞こえてきそうだった。

(写真は女川駅の2階から撮影したもの。道路を挟んで向こう側にある建物群は「シーパルピア女川」という商店街。その奥に見えるのは女川湾だ。)

私は「何が待っているのだろう」という期待と、少しばかりの恐怖が入り交じった気持ちで駅を出た。

第一印象は「綺麗な街やな」というものだった。眼下に広がったのは、地面に敷き詰められたレンガ、長さが整えられた芝生、まだ木の匂いがするくらい新しい建物たち…。一瞬、この街で何が起こったのか分からなくなってしまった。

やや目線を上げると、奥には左右を山に囲まれた小さな海が見えた。私の目に、その海は本当に小さく映った。あの小さな海がこの町を全て飲み込んでいったのか…。信じられなかった。しかし、それが紛れもない事実だということは、この「綺麗な街」が証明していた。

(女川町まちなか交流館には、復興の足跡を記録したパネルが展示されている。震災から3年後の平成26年は、まだこのように「何もない」状況だった。)

震災の爪痕

私は商店街を抜けて海へ向かった。たくさんの尊い命を奪った海だ。その海は、今どんな表情をしているのか。どうしても自分の目で確かめたかった。

その表情は穏やかだった。とてもじゃないが、この海が「凶器」となって町の人の命を奪い、多くの悲しみを生んだとは思えなかった。むしろこの海は何の悪気もなく街の人と共存していた。どれだけ憎まれているのかもいざ知らず…いや、女川町は元々港町だ。もしかしたら共存を望んでいるのは街の人の方なのかもしれない。「今、どんな気持ちなのか」、海に問いかけても、勿論何も返ってこなかった。

海から商店街に戻る途中、津波の威力をまざまざと訴えかけてくるものがあった。

これは旧女川交番。津波の引き波の影響で倒れたと見られている。杭まで引き抜かれており、いかにその威力が凄まじかったかを物語っている。頑丈に作られたはずの建物さえも、簡単にひっくり返す。無情にも横たえられたコンクリートの塊を前にして、私は人間の無力さと自然の恐ろしさを感じずにはいられなかった。

女川町を襲った津波の高さは約20m(ビルの7階に相当する高さ)と見られている。町の中心部が沿岸にあったこともあり、被害は壊滅的なものになった。死者・行方不明者の合計は900人に迫る。震災前の人口は約1万人だったので、町民の10%近い方が命を落としたことになる。

これまでは「信じられない」と思っていた事実が、自分の目を通して少しずつ自分の心に刺さっていく。刺さるどころか抉り、心に強い痛みを感じた。きっとこの痛みは、女川町に足を運ばなければ一生感じることはなかっただろう。それと同時に、この自分の気持ちを「痛み」という言葉でしか表現できない自分に凄く腹が立った。自分の中での「東日本大震災」が変わり始めた。

復興と希望

私が感じた「痛み」よりも強く、激しく、悲しい痛みを街の人は感じたはずだ。それでも、街は前を向いている。

(上は「きぼうの鐘」、下はそのプレート。)

街は新しく生まれ変わっており、至るところに希望を感じた。その象徴となっているのが、この「きぼうの鐘」だ。旧女川駅前の広場には4つの鐘を持つカリヨン(からくり時計)があり、町のシンボルとして親しまれていた。4つの鐘は震災による津波で流失したが、瓦礫の中から1つだけ無傷で発見され、復興へと向かう街の人々に希望を与えた。その鐘が「きぼうの鐘」として、2017年4月に完成した灯台の上に設置され、復興の象徴となっている。

(シーパルピア女川を海に向かって撮影したもの。街全体から希望を感じた。)

私が話した商店街の人々の声からは、希望だけでなく「日常」も感じた。もう今しか、前しか見ていない。どうすれば街がより良くなるか、観光客に来てもらえるか…そんな思いが伝わってきた。

震災が引き起こした事実も、それに立ち向かい、前に進んでいる人々のことも、現在の街の状況も、全て実際に足を運ばなければ分からなかったことだ。行ったからこそ、自分にはそこで感じたことを伝える必要があると思い、心に留めるだけではなくキーボードを叩くことを選んだ。

実際に女川を訪れて

街にある、全てのものの存在に「震災」が関わっていた。震災と街とは切っても切り離せない関係にある。それは街だけでなく、街に住む人々にとっても同じだろう。それでも、街や街の人々は前を向いていた。

私たちに今出来ることは何なのか。8年経った今、しなければならないことは何なのか。女川町を実際に訪れて、それは少しでも被災者や被災地を思うこと、震災について考えること、そして何より忘れないことだと私は思った。

実際に被災地を訪れる必要はないと思う。私以外にも沢山の方が実際に訪れて、そこで思ったことを発信しているし、メディアは沢山の声を伝えている。それらを見て、少しでも震災について考えることが出来るのならそれで良いと思う。

災害はいつ、どこで起こるか分からない。もしかしたら自分が被災者になるかもしれない。そんな時、少しでも震災について知っていたら、考えることが出来ていたら、自分や周りの人を救えるかもしれない。1つの尊い命が失われなくても済むかもしれない。だからこそ、私たちは絶対にこの震災のことを忘れてはいけないと思う。

最後に、私が女川町を訪れた目的は「東日本大震災を肌で感じる」ことだった。これについて、自分が思っていた以上のものを肌で、心で感じることが出来た。中には言葉では表現できないような思いもあった。言葉は時に無力になるのだと実感した。

感じたことをなるべく文章で伝えようと思ったが、伝わらない部分も多かったと思う。私の力不足で、本当に申し訳ない。それでも一人でも多くの人が、この文章を読むことで震災を「自分のこと」として考えてくれれば、私がこの文章を書いた意味があると思う。もう一度、あの日を思い出してほしい。

3.11、忘れない

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