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飛田新地 写真集プロジェクトを応援します。

大阪市西成区 現行の娼街・飛田新地

大正期に創設された遊廓を起源に持つ飛田料亭街、俗に飛田新地は、近年インターネットは言うに及ばず、新聞やテレビといった保守的な旧態メディアでも取り上げられることが増えてきました。

飛田新地の存在をきっかけに遊廓の存在を知り、その歴史への興味を深めてきた方も多いのではないでしょうか?(そして勿論、現在進行形で売春営業が続けられていることへ純粋に驚いた方も。)

少なくない人に遊廓の存在を知らしめ、また考える機会を与えてきた飛田新地を構成する娼家建物を残すことは、私は観光資源・歴史学習資源の上から十分以上に意義あるものと考えています。(遊廓の歴史はそのまま近現代史の映し鏡であると考えているからです)

持続可能性があるはずの旧娼家も取り壊されている

しかし近年、経年によって建物が耐久性の限界を向かえつつあることや、所有者の代替わりといったことなどを背景にしてか、取り壊される飛田新地の旧娼家は、次第に増えているようです。

私はこれまでに500箇所前後の娼街を撮影記録して『遊廓』にまとめました。現在わずかに残されている多くの旧娼家は、一般住宅として転用されており、当然に近代的な住居と比べて圧倒的に不便であることから、その多くが歴史的価値よりも住居としての利便性が優先された結果、取り壊し、建て替えなどされている現実を肌感覚で理解しています。(ただし、私はやむを得ないと理解しています)

一方、現行の娼街である飛田新地は、ある種の持続可能性を持っていることから、他の旧娼家に比して残される可能性が高いのではないか、との希望めいた想いを抱き続けてきました。

しかし結果は先に述べたごとくで、飛田新地内で続けられている性売買の是非は別して、全国の遊廓跡の中でも飛び抜けて高い持続可能性を有する飛田新地ですら建物を残すことは難しいとの事実に改めて直面していたここ数年でした。

飛田新地内にある旧娼家を後世に残すプロジェクト

そうした中で、飛田新地内にある一軒の旧娼家と偶然が重なって巡りあい、偶然以上の努力を重ねることで写真集を残そうとしているプロジェクトのことを知りました。当プロジェクトの一人である元𠮷烈さんが、私の経営するカストリ書房に、このプロジェクトの相談を兼ねて来店して下さったのが、昨年のことです。

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(プロジェクト写真集『ある遊廓の記憶』表紙)

先日、完成に近づいた写真集のサンプルを拝読しました。飛田新地を第一線で研究・記述してきた研究者やライター、新地関係者といった執筆陣(徳山邦浩氏、橋爪伸也氏、佐賀朝氏、井上理律子氏、金田信一郎氏〈掲載順〉)を揃え、早く本文を読みたい欲求に駆られたことはもちろんですが、私が何より惹かれたのは、元𠮷さんが担当したお写真でした。

「ある遊郭の記憶」SAMPLE入り_ページ_61
「ある遊郭の記憶」SAMPLE入り_ページ_20
「ある遊郭の記憶」SAMPLE入り_ページ_16

(以上3点、プロジェクト写真集『ある遊廓の記憶』内より引用)

近年刊行された書籍が収録した飛田新地の写真群に、正直なところ不満だった私ですが、本写真集に収められた写真からは、元𠮷さんの丁寧な仕事が伝わってきました。長年使われてこなかった室内には、当然チリが降り積もっています。しかし、このチリの一つ一つが娼家が宿してきた記憶──刹那的に交わった男と女の儚い記憶──の積層に他なりません。そして、いまも黒光りする手すりは、幾人の男の手脂と、女の血涙を吸い込んできたのか・・・

「ある遊郭の記憶」SAMPLE入り_ページ_55

(以上プロジェクト写真集『ある遊廓の記憶』内より引用)

写真の素晴らしさを支えたのは、様々な困難を抱えながらも内部の設えや資料の保存に努めてきた、所有者や関係者の賜物であることも、写真を通じてよく分かりました。当プロジェクトに関わる人々の多くの努力によって、今回の写真集という成果に収斂されたことは、写真一葉一葉を眺めながら、自然伝わってきます。

「ある遊郭の記憶」SAMPLE入り_ページ_67

(以上プロジェクト写真集『ある遊廓の記憶』内より引用)

内部の設えだけではなく、書類や物品も遺されていることに衝撃を受けました。実物を拝見していないので詳細は不明ですが、娼婦の借用証書など人身売買の根拠となり得る書類は、往々にして家族の手によって廃棄されがちです。満すみの運用は今後さらに検討されるのだと思いますが、こうした書類も散逸しないよう、善処を望みたいと思います。

「ある遊郭の記憶」SAMPLE入り_ページ_24

(以上プロジェクト写真集『ある遊廓の記憶』内より引用)

今回、飛田新地内に現存する旧娼家「満すみ」の写真集を製作するクラウドファンディングを企画しているプロジェクト代表・篠原匡さんからご相談を受け、その趣旨に賛同しましたので、ささやかですが私も以下の通り応援させて頂きます

こちらのノートを読んでご賛同してくださり、クラウドファンディングに申し込んで頂いた方には、私からは特製マメ本を提供します。申し込み方法は最後に記します。志あるプロジェクトに外野ながら応援させて頂く身ですので、私なりの意図や姿勢を記しておきたいと思います。以下、本稿の本題となりますので、少しお付き合いください。

本ページからの支援者にはマメ本『〝線後〟の飛田新地』

微力ですが、少しでも多くの支援が集まればと思い、私が経営する(株)カストリ出版・カストリ書房(遊廓専門の出版社および書店)を通じて、クラウドファンディングで支援して下さった方向けに、今回のために執筆・制作してつくる小さな本(マメ本)をそれぞれのリターンに付け加えさせて頂きたいと思います。

特典マメ本のタイトルは『〝線後〟の飛田新地』(仮題)を予定しています。「線後」は誤字ではなく、売春防止法後すなわち赤の廃止直を時代に取り、売防法をくぐり抜けた経緯について、まとめてみる試みです。

ことさら線後を扱うのは、理由があります。現在の飛田新地を紹介するネットやテレビないし書籍など多くのメディアは、例えば、こう紹介します。

「遊廓の昔を伝える飛田新地」

すなわち遊廓と呼ばれる近世・近代に制度化された性売買システムが、現代の飛田新地にも連綿と続いている、と。

「飛田新地にある160の『料亭』は、江戸時代にあった遊郭のたたずまいを今に伝え、艶やかな風情を醸し出す」(土井繁孝『百年の色街 飛田新地 遊郭の面影をたどる』「はじめに」〈令和2年、光村推古書院〉)

上記は、飛田新地を扱う最も新しい書籍からの引用です。分かりやすい例です。

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(葛飾応為『吉原格子先之図』)

葛飾北斎の娘・葛飾応為が描いた『吉原格子先之図』を思い出すまでもなく、仲居を名目とした娼婦が眼前に自身をディスプレイし、男たちがぞめき歩く(遊廓の遊女を品定めしながら歩くこと)姿は、たやすく在りし日の遊廓を「連想」させます。

こうしたイメージがあまりに強いためか、私たちが「遊廓的」とみている有り様が、そもそも遊廓的であるのか? といった根本的な検証をどこかに置き忘れてしまっている印象を、私は数年来持ち続けています。

飛田遊廓の歴史は平成より短い

飛田遊廓が開業した大正7年から公娼制度(遊廓)が廃止された昭和21年までの期間、すなわち厳密な意味で「飛田遊廓」と呼べる期間は、僅か28年間に過ぎません。平成より短い時間です。準公娼制度と呼ぶべき赤線が売防法によって廃止された昭和33年までを含めても、半世紀以下の40年間。一方で、昭和33年から令和3年の今日までの期間は63年間が過ぎています。飛田新地の歴史の半分以上は、赤線廃止後のことになる事実を意識している人はどれほどいるでしょうか。

次いで、私は次のように見立てます。

現行法下で公然と性売買が営まれるという、飛田新地の治外法権的な街に私たちが惹かれるのであれば、現行法が編成された時期(赤線〜線後期)にこそ、惹かれる理由の根源があるではないか? 何故ならば、この時期の飛田新地がとった進退や方法論が違うものであれば、現在の飛田新地は存在していないはずだからです。この時期に、現在の飛田新地の原点があるのではないか──

どうしたわけか、飛田新地を紹介する書籍が内容に据える時代は戦前期が主で、公娼制度が廃絶しながらも営業を続けた赤線期、あるいは売防法下に移行しながらも性売買を続けた線後期をメインに紹介する書籍(インターネットが普及し、いわゆる裏風俗などとして紹介されて以降の時期は除く)は、管見の限りでは存在しません。

飛田新地にとって多くの時間を占めている線後期については、なぜか見過ごしにされてながらも、遊廓との連続性に疑いが差し挟まれてきませんでした。(時間の長短といった定量で、歴史を判断することは容易にできませんが、定量化する試みは飛田新地を知る上で無駄ではなかろうと思います)

今回、クラウドファンディングの特典として差し上げるマメ本の結論を先取りすれば、近世・近代の性売買システムは連続せず、断絶し、現代人が「遊廓的だ」と認識している飛田新地の性売買システムは、赤線廃止後に生まれたものであると私は考察しています。

そもそも一連の「遊廓の雰囲気を残す〜」といった常套句は、タイトル・帯文・はしがきなどに用いるための、ある種のレトリック・謳い文句に過ぎず、問うても重箱の隅をつつく様に似ているかもしれません。しかし拙著『赤線本』(イーストプレス)でも触れたように、元はたわいないレトリック・俗説であってもそれらが多く流通すれば通説を生みます。とりわけ情報が容易に複製されるインターネットを常用する私たちは、ますます資料批判の精神が後退していると感じます。

今回のマメ本はボリュームこそ小文ですが、昭和36年に大阪府が自ら調査した公的な文書を用いて考察を加えました。この文書は国会図書館や各公共図書館にも所蔵がない貴重なもので、線後期の飛田新地についても、今以上に多くの人が関心を持ってくれることを望んで、鋭意制作に努めたいと思います。

マメ本希望の方はその旨、メッセージに!

さて長くなりましたが、肝心のマメ本特典の申し込み方法です。アナログな手法ですが、急遽プロジェクトメンバーの方と相談して決まったことですので何卒お許しを。

手順を示します。

①通常通り、クラウドファンディングで支援する。
②支援完了後、画面右上からマイページを開いて「メッセージ」をクリック

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③「新規メッセージ作成」をクリック

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④「実行者にメッセージを送付する」をクリック

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⑤「朽ちつつある遊廓跡を世に残したい!写真集プロジェクト」を選ぶ

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⑥株式会社蛙企画さんが本プロジェクトの実行者です。メッセージを入れて送信

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以上です。

せっかくクラウドファンディングで支援して下さった多くの善意を傷つけないためにも、敢えて注意事項を列記してみます

・プロジェクト実行者へ「カストリから紹介受けた旨、マメ本を希望する旨」メッセージを上記の方法で送ってください。(是非、熱いメッセージも添えて下さい)
マメ本はリターンと一緒に、プロジェクト実行者である蛙企画さんから発送されます。(発送予定日はプロジェクト紹介ページにて、ご確認を。)
書き忘れや、後からの希望には添えません。多くの人に迷惑が掛かるので、プロジェクト宛のクレームはお控え下さい。当方宛のクレームにも対応できません。

飛田から大きなうねりが生まれる

売春防止法が完全施行される直前の昭和32年、労働省(現厚生労働省)の調べによれば、飛田新地のような赤線業者は全国に約15,000軒も存在し、基地周辺や赤線まがいの娼街なども広く含めると35,000軒の娼家が存在したとされています。(実際にはもっと多くあったものと推察しています)

今回、写真集に収められる旧娼家「満すみ」はその内の1軒に過ぎず、いわば1/35,000を記録に収めたに過ぎません。しかしシンボリックな存在である飛田新地(昭和4年時、業者数が10番目に多い遊廓)でこうしたプロジェクトが動き出すことで、やがて遊廓が観光資源・歴史学習資源としての価値が認められる、そうした大きなうねりに繋がるものと私は期待しています。

以上、本プロジェクトの応援、どうぞよろしくお願い致します。
2021年1月16日
渡辺豪

2021/01/16 20:45
メッセージの送信方法を修正しました。既に応援メッセージを送信済の方はマメ本を献呈致しますのでご安心下さい。

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