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私が美術館にいく理由「疑似的な死」

ちょっと前からぼんやりと見ているこちらのコミュニティでお題が出ていたので。 #私が美術館にいく理由

昨年末くらいから美術展に行きまくり、来月はスイスのバーゼルにアートバーゼルを見に行く。自腹。
別にアート関係者でもなく、正直得るものはない。
ただの自殺行為。自傷行為という方があってるかもしれない。よくわからない。

もともと、本当に最初に美術館に行くきっかけは、「それ以外親が出かけることを許してくれなかったから」というDV家庭にありがちなソワソワした理由が原体験にある。ピカソのゲルニカを見に行くと言えば許してくれる。
美術館に行くと言えば、40分電車に乗って一番近い地方都市に出かけることができた。(ゲルニカは当然現物ではなくて実寸大のタペストリーの展示だった)

社会に出ることではなく、家から逃げ出す束の間が、あの美術館の薄暗くひんやりした天井が高い静かな空間だった。

いつも、そこにはうっすらと、私にとっては「社会的な死」のようなものが満ちてる。それは静かで、穏やかで、でも未来もなければ意味もないし、金にもならないし、モテる事もないし、別に絵を見ても何かわかるわけでもないから楽しくもない。

身体が死ぬわけでもない。
心が死ぬわけでもない。
でも、美術館に行ったって、なんの役にも立たないし、なんの利益にもならないというのが本音だ。
文化的な生活の余地がない人間にとって、そこは死んだような場所といってもそれほどおかしくはないと思う。

100年以上前に死んだ人間の描いた絵を見て、一体なんだというのだろう。
だったら流行りの漫画のほうがいい。美形なアイドルのほうがいい。そういう選択肢もあっただろうけど、幼い時からNHK以外は観てはいけないテレビ禁止・甘いものを食べるの禁止などとにかく締め付けの強い家だったので、普通の生活にある選択肢が少なかった。
友達との共通の話題も少なくて、学校ではとても苦労した。
そして出かけるのが許されるのは美術館。
そこは、もう成長をすることがないものを、さらに時間を止めることに腐心しているような場所で、「今」も「未来」もない。
心地よくはなかったが、そこしかないのだから、しょうがないのだ。

なんの役にも立たない。
意味はあるかもしれないが、だから何だというのだろう。
そういうのが現実だ。
美術館に行ったからって、私が家を出られるわけではない。

あの空間は、10代後半の未来のなさの諦観に寄り添う肌触りだ。
その後、私の家はもっとひどいことになり、毎晩父が暴れて包丁を振り回し、進学はできず、よくわからないまま時給980円で夜遅くまで働くような日々だった。部屋に灯油をまかれそうになり、屋根裏にこたつコードで首つりのわっかが吊るされていて、ついに「ここにいては死ぬか殺すかどちらかだ」と思って、1年準備して家を出た。

行ったところで金にならない美術館になんの価値があるだろうか。
アフリカの子供に500円寄付するなら、国内の未来ある若者の私に寄付しろよと思った。私は若くて美しいし、頭も悪くないし、アフリカの子供と同じかそれ以上に寄付してもらうべきだと思いながら、道端で寄付を募る活動をしている人たちを見ていた。

でも、私は美術館によく行く。
美術品と言われるものたちの「なんでうやうやしく飾られているのか」という文脈が少しわかるようになったことと、自分の好みもわかるようになったこと、そして、あのうすら寒い「社会的な死」を許す贅沢な空間で、何度でも死にたいと思う。

貧乏人は一回でも間違うことができない。失敗ができない。
でも世の中には、本当に豊かな人たちがいて、信じられないくらい世界が明るくて、怖い事が少なくて、楽しい事が多い人たちが、たくさんいるのだ。
知らなかった。

美術館にはそういう人たちがそのまま存在しているわけではないが、そういう社会の余裕というか、良いものをお気持ち程度の入場料で見せてやるというお心の広さみたいなものがある。
「社会的な死」も、大変だったねーで済ませられるくらいの余裕が、そこにある。
こっちはな、死ぬんだよ、300万円くらいの額で。
父を殺し、母を埋め、飼っていた犬をなでてから二度とエサを与える事もできずにそこを立ち去ることしかできないような、そういう未来を思いながら生きてたんだよ。
その後も「金がない」って電話がかかってきて、自殺か、ホームレスかの二択だったんだよ。そこにかかっている絵の1枚の値段で、何人の人生が助けられるのか、考えたこともないんだろう。

でも美術館はその場にいる時だけふんわりと「死」を与え、そこから歩いて出ると、また普通に電車が走っている世界に戻る。
なんて余裕のある世界なんだろうか。同じ国にいるのにこんなに違う。

ほんとうに死ななくてもいい死。

美術館が私を助けてはくれない。そんなことはわかっていた。ほかの人間も私を助けてはくれなかったから。

それに余裕のある人たちの存在を、うらやましいとも妬ましいとも思わなかった。そういうふうに思えるほどの現実味もなかった。
そこにいるすれ違った人たちがどんな人で、どんな悩みを持っているかなんてことも、どうでもよかった。
たくさん人はいたけど、誰一人知り合いはいない。
都会に出てきて一番うれしい事は、こんなにたくさん人がいるのに誰も知り合いがいない事だ。私はそういうところに一番安心する。
知り合いは敵になる。田舎に育つとその感覚はわかると思う。
誰も知り合いがいなくて、誰とも口を利かない。
それがとても心地よい。
無関係を許す。
無意味な死を、許す。
いわゆる生産性が皆無の事を是とする空間。
作品の好みや見たい展示、エキシビジョン、エンターテイメントとして面白く感じる事以外で、美術館に何を求めているかというと、ただ私の社会的な死を、一時的に与えてほしいという気持ちなのかと思う。

私の理想の死は、人の多いところで、誰も知り合いがなく、行き倒れのように死ぬことだ。安心した家の中でもなく、家族に見守れながらでもなく、誰も知らない人たちのいるところで、人間関係のない形で、マッチ売りの少女のように死にたいものだと思う。

そうも言ってられないという事はわかっているので、うっすらとした疑似的な死を、何度も美術館の中で繰り返しているような気がする。


補助金などの話で美術館も日常的なものではなくなってしまったら、私はどこで死ねばいいのだろうかと思う。
ゆったりと、非生産的な空間を保ち、それを低価格で多くの人が入ることを許される場所が、これからも守られていくように願ってる。
意味とか分からなくていいし、面白くなくてもいいし、ちょっとエスタブリッシュメントな嫌味臭いところがあってもいい。私の悲しみを理解しないでいい。ただ、その空間が、疑似的な死を許す余裕が、美しいかたちで門戸を開いていることで、誰かは救われるのだし、その誰かが別の誰かを支えたり助けたり働いたりするのだから。

いつも、美術館がうすら寒い暗がりを抱え続けていられますように。
すべての美術館が、そうやって誰かに一時的な死を許してくれますように。無意味で無価値な時間を許してくれますように。
あるいは博物館や、図書館や、とにかくそういう公共の文化的な場所が、そういう部分を、我々に許してくれますように。

そう願ってる。

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つよく生きていきたい。