花を買うのは修行だと思う

いろいろなことが行き詰まった

ような気がして、昼まで眠っていた。
ひどく雨も降っていたようだし。
なんとかベッドから出て、それからぼんやりと部屋の片づけを再開した。

このところ少しずつ進めていた片付けは、急に加速した。

ずっと棚の奥に入っていたものを、ゴミ袋に入れた。
いらない?いる?使う?

……いいえ。

化繊のぺらぺらしたヒートテックや毛玉のタイツや、もう履く気もないけど必要な日が来るかもしれないと取っておいたストッキング。
安いフリースのルームウエア。パジャマの洗い替え用にと思っていたけど。
いろんなものを、ゴミ袋に入れる。

ミニマリストという言葉が一般的になってきたけれど、わたしはもともとそのような生き方に憧れていた。
中学生の時に、もしトランクひとつで生活するなら何を持つだろうかとノートに書いていた。どんな服で、何を持つのか。
それは何も欲しいものを手に入れられなかった代償として、想像で欲しいものを埋めるという行為だったと思うけれど、いくばくかの期間を経て、今もう一度トランクひとつの生活というのもいいなと思っている。

と言っても、実際には仕事のための資料もいるし、パソコンとかプリンタとかコピー用紙とかも必要だし、服だって適当というという訳にもいかない。
可愛らしい化粧品も好きだし、小さなアクセサリーだって手元に置きたい。
気になるものは買いたいし、友達から何かをもらうことだってある。

ここしばらく、自分で事業を起こしてからずっと、本や資料は増える一方で、そこはもう増やすだけ増やそうと思った。絶版本とかもあるし、買って手元に置いておく必要だってあるだろう。
でもそういう中で、在庫を自宅に置いたりして、状況は混乱の一途をたどっていた。部屋に段ボール箱が大小あわせて20箱くらいあるという異常な状況だった。まあ、仕方ない。別途倉庫も借りているけれど、手元にどうしても必要なのだから。

それでも、実際自分の生活に必要なものは非常に少なくて、何枚かの服と下着、寝具一式、いくつかの食器と調理器具。
旅行用カバン。
それと、金魚を飼っていたので、金魚鉢がいくつか。

別にミニマリストになろうとは思っていない。
ただ、やはり片付けが下手という意味では、母が完璧に片づけられない女そのものだったので、わたし自身の片付け下手はサラブレッドクラスだ。だから、圧倒的にモノが少ないというのは重要な要素になる。

一時期憧れてはいたものの、現代社会を憎むようなタイプのミニマリスト、思想としてのミニマリストになるつもりはあまりない。
でもドミニク・ローホー氏の著書は好きで、震災直前に買ったのだけど、震災後の心のよりどころになったのは確かだった。
化粧品もアクセサリーもグッと減らしてもちゃんとオシャレをする方法があることを教えてくれた良書だ。非常に女性らしい視線がたくさんあって、よき姉とでもいう本だった。

ミニマリスト的なものの少ない生活は理想ではあるけれど、わたしは修行僧のような生活は望んでいない。

ずっと子供の頃、母や両親の意向に沿う事を良しとされていたので、自分の感性に蓋をし続けていて、それをやっと解放できたのがまさかの借金返済のためにビジネスを立ち上げる必要に迫られてのことだったのだから、いまだに混乱している。
自分というものが、よくわからない。というか、自分の感性の前に戸惑ってしまう。
欲しいものを欲しがれないし、面白いものを面白がることにひどい罪悪感を感じている。妹は「欲しい靴を買うだけなのに、ものすごい罪悪感と戦わなきゃいけない」といって、その戦いの勲章の靴を何足も買っては親にしかめ面をされていた。

私たちは人を殺しても、盗んでもいないのに、素敵な靴を一足買う事は大きな罪だと思わされていた。

欲しいものを手に入れる事に対するひどい罪悪感を植え付ける事で、親は子供に何をさせたかったのだろうか。
単純に自分の資産を減らしたくなかったというのはあるだろう。
でも、子供という立場からすると、罪悪感で得られたものはとても少ないし、それで失ったもののほうが多いような気がする。

罪悪感を感じないためにモノを持たないというなら、それは間違っていると思う。

わたしは、モノを持つことには否定的ではない。
ただ、管理能力の範囲を超えたモノは、ないほうが精神的によいと思っている。そして、もっと言うなら、モノはなくてもお金ががっちりあれば、変な話モノなんか所有しなくていいと思う。
でも、そんなホテルに住むようなお金持ちじゃないし、毎年高級なコートを買う事もできないし。

なにかを戒め、罰するためにものを捨てる。
そういった体験がある人は、実際のところものに相当苦しめられていると思う。そういう罰を与える側の人間も、それが効果的だと思うからやる訳で、やはりモノに縛られている思想に基づいている。

そういう時に、花を買う。

花を買うのは、修行だと思う。

花は何の役にも立たない。食べられないし、飾るには片付けが必要で、お手入れもいるし、枯れたら捨てなくちゃいけないし、そもそも安いものじゃない。

華やかな気分になれる?なんて、後付けの理由だと思う。

花を買うというのは、そういう無為に小さなお金を払えるかという、修行だ。

不必要なものを持たない、という意味では、花など最も不必要なものだ。厳格なミニマリストとしたら、一番先に手放すべきものだ。
だからこそ、すべての不要なものを手放していく最中に、花を買うのだ。
そう思う。

わたしの部屋には、今もゴミ袋がいくつか転がっていて、燃えるゴミの日と燃えないゴミの日を待っている。
その横に、ミッドナイトカラーのアネモネが一輪。

値段でいうなら、250円くらいかな。
パン屋さんで美味しいパンが買えるじゃないか。
それでも、このアネモネを買う。
それが、たぶん私の修行なんだと思う。
もったいないなとか、損をしたとか、そういう思いを感じる事と、アネモネが好きで、この深い色合いの花びらが自然のものだと思うちょっとした感動と、そういうものを一緒くたにしながら、奇妙な感情に揺れ動いている。

もっと、何もかもが、すべてうまくいけばいいのに。

ぺらぺらした古い服をゴミ袋に詰めながら、仕事のことを考え、できていない様々なことに思いを巡らし、花を買う。

なにもかも捨てる事ができるという覚悟があるなら、花の一本を買ってみろよ。何のリターンもなくても、それができると自分に突き付けてみろよ。

まるで、その花は私に向けた刃(やいば)のようだ。
自分の中のひどく弱い部分に突き刺さる。
誰のためでもなく、自分のために飾る花は、どうしようもない弱さの存在をヒシヒシと伝えてくる。

だから、しばらくは花を飾り続けよう。
と思った。

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