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どんどん入れ替える

ミニマリストにかなり近い生活をしていた頃は、ゲストハウスのドミトリーに住んで風呂なしで、石けんで髪の毛も洗えるようになったし、もちろん鍋でごはん炊けるし、かなり気合いが入ったミニマリスト暮らしだったなあと思う。
およそ、20代半ばの頃。

でも、そこに意志はなかった。

ミニマリスト暮らしに憧れる人たちや、それを目指してはブログをしたためる人たちを見て、やっと思い出したけど、私は相当彼らが憧れるミニマリスト暮らししてたなぁと。

意識してなかったので、そんな記憶にはなってないけど。

ちなみにドミトリーに住んでるって言ったら、当時の彼氏の友達が私を外人だと思ったらしくて彼氏は国際結婚すると勘違いされたらしいです。

で、そのドミトリー暮らしが「少ない物で豊かな暮らし」だったかといえば、正直なところ、別に?としか言いようがない……

私は、20代初めに借金苦に陥って暴れる父や困窮する実家から逃げるために家を出てきた。
おかげで前半の記憶はあまりに曖昧で、まあ向精神薬も処方されたり(副作用最悪過ぎてあまり飲めなかった)、とにかく最悪だった。
最悪だと、人間はものを判断しなくなる。
あるものだけで生きて行く。
底辺と言われればそうなのだけど。

そこからある程度の時間と体験といくつかの成功と失敗と未だ残る精神的後遺症を抱えつつも、ひとつの転機を迎えた。

自分の基準がやっと出来てきた。

そうしてからやっと、漠然としていた部屋の中が、一本の糸でできているかのように、スルスルとひとつのものが見えてきた。

まず、いらないものを捨てる。
必要なものを、必要な基準で選び出し、手に入れる。
必要なものか使うときにさっと出てくるようにセットする。

ドミトリー暮らしが5年くらいあったのに、たった数回の国内出張のほうが強烈に私を変えた。

ミニマリストを目指してはいけない。
減らすのではなく、的確に持つのだ。
そのために、捨てるのではなく、入れ替えるのだ。

減らすことに執着すると、捨てることで安心する。
ものを持つ力を失う。

ものを持つことはできても、ものを使うことはまた違う。
すべては使うことに焦点を置いて選んでいくと、結局持てるものの量などたかが知れてることに行き着く。

ものを減らすことに執着するのは、結局ものに振り回されてることだから。
ドミトリー暮らし5年してかなりミニマリスト暮らししてた私の経験からしても、別に物の量で人間は判断されないし、別に豊かな暮らしなわけでもない。そんなことは、無関係なんですよ。

思い返せば相当気合いの入ったミニマリストでしたね、私は。でも意識ゼロ。
ものが少ないから幸せって、結局ものが多い時の苦労と比べての話だから。
ものの豊富な豊かさの方が、基本的には豊かだと思う。
そしてもっとも豊かなのは、ものの寡多ではなく、必要なときに必要なものがある=不自由がないこと。

そのためには、ものを的確に選ばないといけないのだなとつくづく思います。
選んで、うまく使うために練習して。

ものを持つだけで使わない悪い癖は治したいものです。
そして、とあるアスリートが「お気に入りや定番は持たない。どこのどんな環境でもベストを出すために、これがないとダメを減らしていく」というスタイルは、もともと大好きだ。
それがなければ家を出られなかった。
幸せな場所をさっさと捨てて、新しい不自由な場所に行き、そこで不自由なく暮らすこと。

ものを減らすことに執着せず、所持よりも使用に焦点を置き、身軽さにこだわらず、イヤなものはイヤだと言う。

さふいふものにわたしはなりたひ。

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つよく生きていきたい。