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一般人アートバーゼルへ行く■チューリッヒ最終日

朝、ホテルで身支度していたら電話が鳴った。最初なんの音か気づかなかった。フロントから「素敵なブレックファーストがあるよ」と言われて、そうだった忘れてた!となったんだけど、適当なことを言って(適当なことしか言えないからね)、とりあえず先に帰国する案内人にあいさつにチューリッヒ中央駅に行く。

駅まではすぐだけど、川が透明で、木々の緑がみずみずしく、外国であるという妙な解放感で足取りがふわふわと軽くなる。
連日緊張して過ごしていたので、その朝の足の軽さに自分でも驚く。
これからひとりで1日過ごして明日は飛行機に自力で乗らないといけないのに、信じられないほど心が軽かった。

チューリッヒ中央駅で、「大変お世話になりました」とジャパンスタイルのお辞儀をする。「そこはヨーロッパスタイルじゃないんですか」「ジャパニーズスタイルです」
そこはかたくなです。チューリッヒ中央駅でも品川駅みたいな仕草。

リンデンホフの丘

案内人と分かれて、ひとりで向かったのがリンデンホフの丘。

チューリッヒの観光名所。何かがあるわけではなく、そこからの景色がとてもよいという小さな丘のこと。

グーグルマップ様のおかげで一人でもいけます。
じゃないと、道が細かく入り組んでいて、目印や看板があってもいまいちわからない。
でも多くの人がリンデンホフの丘を目指して歩いているので、観光客についていけばよい。

丘の上は、穏やかな木陰になっていて、チューリッヒのリマト川をはさんだ景色が湖まで一望できた。

あまりにきれいに写真が撮れる。
友達に画像を送ったら「AI画像みたい」と言われてウケる。
スマホのカメラと画像処理を通してしまうと、目の前のものはそういう・・・・ものになってしまうのだ。

スマホのおかげで一人で外国の街を歩くことができ、でもそれはどこかAI的な―――――人工的な?そういうものに、ちょっとだけすり替えられる。
ような気がした。

この瞬間の時差なども無視して、今の目の前の風景を誰かのスマホに送る。
誰かが、それぞれに小さい画面から世界のあちこちをのぞいている。

人工的な、AI的なものにすり替えられても、目の前のものが変わるわけでもない。
「気を取られる」というのが、一番、的確な表現のような気もする。
気を取られるのだ。
みんな現実を画像的なものに落とし込もうと注力せざるを得ない時代に生きてしまっている。
それが、現実から少し、あるいはとても多く、気を取っていく。

気とは。
なにかはっきりとは言えないし、世の中のスピリチュアルな商売でいうやつとも違うやつだ。
なにか、集中力というか、意識というか認知というか、五感というか、感受性というか、そういうようなもの。

それはあとで考えよう。

「ここ100年で一番ウキウキしているのが伝わってくる」
と友人から返事が来た。

世界から切り離されたように、足取りが軽い。

フラウミュンスター

リンデンホフの丘からフラウミュンスターに行く。
シャガールのステンドグラスが見たい。

入場料は5スイスフラン。
ゆっくり順番にチケットカウンターに並ぶ。みんな音声ガイドを受け取っているけど、私はさっさと日本語で「こんにちは」と言って外国語アピールをして細かいやり取りをショートカットです。
「which language?」「Japanese」「OK!」と言って、日本語パンフレットをもらった。

中は混み合うほどではなかったけど、人は少なくない。
静かに、みんな囁くようにしゃべっている。

カラフルという言葉の感覚では足りない有機的な光。
シャガールは私の美術鑑賞の入り口みたいな画家だけれども、これはここでしか見れない。日本に入ってくることはない、絶対に。
ここに、くるしかない。
写真で見ても、まあきれいだけど、その光は見えない。その光と暗がりの両方、人々の囁き声の反響、涼しい空気。知らない言葉。

昔は電灯がなかったから、どこも取ってつけたような配線が見える

そこに意味があるのかないのか、来るほどの価値はあるのか。
くるまでは誰も計れない。
自分でも、一生わからないのだ。

ただ、とても美しかったし、その場所がとても愛されているような感じはした。

誰かが愛している場所に、私もいて、そこで美しいという感覚を得ている。
キリスト教の文脈は表面的にしか知らないし、そこにある思いも正直わからないところはある。
祖母はクリスチャンで、うちの近くの小さい教会は祖母が建てたとかなんとか言っていたけど(本当のことはよくわからない)、だからと言って祖母の気持ちはわからないし、なにを考えていたかも知らないし、仲が良いとも思えない。そういうものだ。もういないし。

それを大事にしている人たちが正しいのかという話になると余計、わからなくなる。
わからなくても、この光はそれを責めたり、理由を求めたりはしない。
だからと言って洗礼を受けるかというとそういう話でもない。

結局あれだけ美術館に行ったのにポストカードを一枚も買う気にならなかったのだけど、ここでだけ1枚ポストカードを買った。
買う時に、小さい声でカウンターのお姉さんに「So beautiful」と言ったら、お姉さんがものすごい嬉しそうに胸に手を当てて肩をすぼめ、眉をあげて「Thank you!」と答えた。
リアクションが強い。そんなに感動する?

リマト川とリマト湖

思ったよりチューリッヒは狭い町で、トラムに乗らずに川沿いを歩いていたら、そのままリマト湖についてしまった。

土曜日はリマト湖のそばで蚤の市があるというのを聞いていたので、タイミングが合えば見てみたいと思っていたのだけど、やってた。
っていうか、ただのフリーマーケットだね!?

ただのフリーマーケットを見て、リマト湖を見ていたら、またスーパーマーケットが見えたので、湖のベンチでサンドイッチを食べようと思った。
湖に近いCoopは、化粧品や服なども売っている店舗で、そういえば海外で化粧品カウンターに行くと言葉が通じなくても美容部員の人は大体コミュニケーション能力が高すぎるのと、化粧の手順は文脈が同じだからなんとなく雰囲気で買い物ができるので、立ち寄ることが多かったのを思い出した。
が、今回はそういう楽しみはスキップすることにして、サンドイッチである。

サンドイッチを買い、湖の周りにある木陰のベンチに座って、むしゃむしゃと食べた。

ところが、勘で買ったホットサンドが、思ったよりおいしくなかった。
ピザソース風の味付けのチキンで、やっぱりハムとチーズのシンプルなやつが一番です。

となりのベンチにはピザの箱をひとりひと箱持ったカップルが、ベンチに胡坐をかいてピザ食べてた。英語で話してたけど、男の子のほうが英語がちょっと苦手っぽかった。

私が座っているベンチに、上品なおばあちゃんがやってきて「あらあら、こんにちは」みたいにちょっと挨拶して、カップルとは逆隣のベンチに座った。なにこのピンクの髪の変な人間と思ったのではなかろうか。

湖の対岸では、いろいろ調べている時に見かけた噴水が、その時の写真のままの形で見えた。
スイスの雀が物欲しそうにやってきて、日本のスズメよりヒワに似ているなと思いつつ、見ていた。ニューヨークのスズメはもっとごつかったけど、ヨーロッパのスズメはこんな華奢なのか。それともスズメではないのかな。

湖にはたくさんの鳥がいて、白鳥や鷺のような大きめのものから、カイツブリのような水に潜る鳥もいた。
カイツブリの夫婦は、停泊しているボートのスクリューのところにいそいそと枝を集めて巣を作っていた。人がとても多いところなのに、なんだかのんびりしている。

あと、ヨーロッパのハトは日本の鳩と同じでした。

今までのシンプルなサンドイッチと比べるとそれほどおいしくなかったけど、まずわけではない食事を終え、となりのベンチのおばあちゃんに「さようなら」と挨拶して、今度は大聖堂に向かう。

にっこり笑うというボディランゲージは、とても分かりやすくよく効く。
なので相手を間違えて乱用してはいけない。

チューリッヒ大聖堂

フラウミュンスターと川を挟んで向かいくらいの位置に、大聖堂がある。
こちらは撮影禁止でした。

ステンドグラスのところが、スライスメノウを使っていて、あのつまらない土産物という印象だったスライスメノウがこんなに幻想的になるのかと、ちょっと感動した。
そういうのがあると事前に写真は見ていたけど。

こちらはフラウミュンスターよりどっしりと素朴で、飾り気が少なかった印象。
ロシアとウクライナの戦争についての何か、チャリティーのようなものをやっていて、ウクライナ支持という事っぽかったけどよくわからなかった。ヨーロッパの肌感覚でロシアとウクライナの戦争はどういう感じなのか、初めてヨーロッパに来て1週間いるだけの人間には、あまりにピンとこなさすぎる。
「わかったような態度」を1mmも取ることができない。それっぽい事も言えない。

日本の毎日の生活でなんとかごまかして自分を大きく見せようとあがいているところは、全部カットされる。等身大の(それはとても惨めなものかもしれないが)自分でしか、そこにいる事ができない。

ダダ発祥の地

そこから旧市街地をぐるぐると歩く。
昨夜と、初日の夜にも歩いたエリアなので、なんとなく「ここでは?」という感じはわかってきた。
ただ、昼と夜だとやはり雰囲気が違っている。

今回チューリッヒに滞在するということで、ちょっとスイス観光として、チューリッヒに関わる何かをと思っていた時に、美術のスタイルのひとつダダイズムが実はチューリッヒが発祥の地だという事を知った。

ダダは第一次世界大戦をきっかけに始まり、その後デュシャンなどのいわゆる我々が想像する『現代アート』の萌芽になったという運動だったのだけど、それがこのチューリッヒに亡命していた若い芸術家たちが起こしたものだという。
その後、チューリッヒからパリに移り、また同時多発的に各都市でダダの活動が広がり、チューリッヒダダとかパリダダ、ニューヨークダダなどと呼ばれるようになった。
その、チューリッヒダダが始まった場所!

もはやそこにもう意味はない(ダダは意味を否定するし)のだけど、やっぱり知ったら見たいよねという気持ちで見てきました。

真向かいの店は、日本でも人気の石けん屋のLushでした。

チューリッヒ美術館で難儀する

さて、実はこの日はとても暑かった。トラムのレールの上を歩いている時に急に転びそうになって、靴に傷がついた。
カラッと乾燥した空気なのであまり気づかなかったのだけど、ちょっと熱中症になりそうなくらいの暑さ。

連日の疲れもジワジワと来ていたのだけど、ひとりでふわふわと歩き回る解放感と不安と、チューリッヒという街の美しさと、ヨーロッパの質感に意識が向いていて、ちょっと気が付かなかった。
空気は軽く……というよりわずかに薄く、日差しは白く、どこか青い。
スイスの事を「妙にきれい」と表現しているのを聞いたけど、雑菌がいないきれいさというか、それはそのまま無機質な、有機物にとっては死を意味するような明るさが満ちていた。

チューリッヒ美術館、クンストハウス。
ロダンがある。

上野の西洋美術館にもある

そして入り口がよくわからない。
というか、すべてが、どうなっているのかおしゃれすぎてよくわからなかった。
なんとか入り込んで、チケットを買って、ロッカーがどこかわからない、順路がわからない、現在地がわからない。
全然わからない!

とりあえず階段を昇ればいいのか?

なんとか中に入り込んで、絵にたどり着くまでとても大変だった。
フロアマップもよくわからない。
トイレも、信じられないくらい扉が壁に擬態している。あとめっちゃ扉が重い。あれはドアじゃなくて壁。

大理石の床と真鍮のような扉がすべてを覆い、案内表示が見当たらない

おしゃれすぎて読めない地図を、具現化したみたいな存在、クンストハウス。人間のあたたかみゼロ!だからこそおしゃれ感すごいけど、手掛かりがなさ過ぎて、旅の終盤で案内人もいないし、ジワジワ体力が削られてきていたのもあって、どんどん気が遠くなる。

薬はあっても水がロッカーだ。失敗した。

とはいえ、絵の前にさえ来たら、後は絵に従っていけばある程度は何とかなります。

セザンヌ、セザンヌじゃないか!
ほんもののエレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢!8歳!
ゴーギャンが死ぬ前にゴッホのことを思い出して描いたひまわりと椅子(右)
あの修羅場を懐かしく思う心境とは
あっ、バーゼルにあるやつと勘違いしてたわこのゴッホ
セガンティーニ!(ファンサを求めるコール)
ジャコメッティ犬🐕とフランシスベーコン(たぶん)
ドガ作ロリコンフィギュア
大きいジャコメッティ
ホドラーホール(ホドラーの公共事業に傑作なしという説がよくわかった。急に大味な絵になる)


気持ち的には、クンストハウスで遭難しそうでした。
水が飲めなかったのがよくなかった。美術館で遭難するんだね!みんな気を付けてね。

ミュージアムショップをのぞいたら、日本の手帳が売ってた。
トラベラーズノート。リフィルが日本語のまま。革のカバーが一番高いのでいくらか見てみたら65スイスフラン。約1万円くらいです。
日本では5000円くらいで買えます。生産国はタイです。私も持ってる。


街を歩いて、ホテルに戻る

クンストハウスを堪能できたとは言えないのだけど、倒れたら困るので、ちょっと無理をしたけど撤退することに。おそらく、見落としたフロアはあっても少ないはず。

街を歩いて、そのままホテルへ。

水飲み場。あと噴水の水を飲んでる人が結構いたんだけど大丈夫なの?
チューリッヒ大学。土曜日は車が渋滞している道

の前に、またCoopへ。
その道すがら、ベンチで休んだり、街並みや川を見たり。

毎日行ったし、今日は2回いった
スシ&オニギリ「ZENBU」いいネーミング

大通りをパンツ一丁のおじさんが、なにか大声で「ヒャハーー!」みたいに叫びながら自転車で突っ走っていたけど、通りにレインボーフラッグがかかっていたので、なにかパレードみたいなやつがあったのかもしれない。
パンツ一丁のおじさん(お腹周りがすごくある体型)、今回の旅で二人目。

タトゥーショップにはなぜか日本アニメのフィギュア。

橋はいくつかあるけど、とても弱々しいよく揺れる橋に、日本でもたまに見る恋愛の願掛けをした錠前がびっしりついているやつにである。
マジでどこにでもあるんだな!

美術館で遭難しそうになった割には、頑張って歩いている。


外国のテレビで一番好きなのは天気予報

ホテルに戻ると、フロントで預けた鍵を受け取るのだけど、もう何も言わなくてもスッと出てくる。お世話をおかけしております。

部屋に戻って荷物を入れなおし、水を飲み、買ってきたリンゴジュースを飲み、ベットに転がったら足が動かなくなった。
疲れがどっと出たような感じがした。腰が抜けたというか、身体が重い。

旅行中、宿泊先にテレビは置いてあったのだけど、つける気にならずに過ごしてきたので、ちょっとだけつけてみた。
手話ニュース。子供たちがコーラスか何かをやっている様子。
チャンネルを変えると、どこかで水害があってその救出の様子。
CoopのアプリのCM。アプリがあればご自宅までお届けが簡単!みたいなことを言っていたと思う。
経済ニュース。

前に海外でテレビを見たのは、香港に行った時で、ちょうど学生デモを中心にかなり過激なデモ活動の事ばかりで、字幕が漢字だからなんとなく雰囲気が伝わってきて「逮捕された16歳の少女が警官に強姦された」とかそんな悲惨なことをずーっと流していたなと思い出した。
そういえば日本の天皇即位の礼も香港のニュースで見た。
そして中国本土の天気予報が大雑把すぎて大笑いしていた。大陸を「晴れ、晴れ、晴れ、晴れのち曇り」くらいの大雑把に予報していた。

チューリッヒでも、ヨーロッパ全体の天気予報みたいなのがあって、スイスは国境を接している国が多いので、もうまんべんなくあっちこっちの国の代表的な都市の明日の天気を、画面を何度も変えながら映していった。
フランス、ドイツ、イタリア、イギリスも。もうちょっと北の方、ノルウェーとかも映っていたような気がする。東の方も。

なんというか、面積の広さ。本当に、面という感じがある。
それも私が考えるような範囲を大幅に飛び越える、面。
と同時に、狭い範囲で天気が急に変わるような、妙に細かい機微を必要とすることもある。
世界は広いかもしれないけど、生活は狭い。
立って一畳、寝て半畳。日本でも通じなくなってきつつある単位を思い出す。
このホテルの部屋は、洋服のポケットのようにこじんまりとしていておさまりがよく、広すぎても不便なんだよなと噛みしめる広さだ。

窓を開けていたら蚊が入ってきて、全力で叩き潰す。大きいシマヤブ蚊。

本当は、少し動けるなら夕方に駅の反対側を見てみようかとも思ったけど、結局ずっとホテルの部屋で街の音を聞いていた。

最後の朝、キャフェ、ティ、チョッコレット

さて、最後の朝である。
起きられなかったらどうしようとおびえていたけど、早起きをした。
6時前には目が覚めた。

なんとか身支度を整え、入れ忘れた物はないか、不安で何度か確認する。
そういえばブレックファーストがあった。フロントへ行くと、おばあちゃんが鏡越しに振り返りもせず、「あっち」と指さす。
グゥドモゥニング、と独特な揺れを感じる口調で、表情はあまり動かないけどいつも丁寧で優し気。

小さい食堂があり、フロントのおばあちゃんの娘さんというには若い女性が「何人?ひとり?」と聞く。その辺に座って、ということでその辺に座る。
「コーヒー、紅茶、チョッコレット?」と聞かれたので、いつもなら紅茶だけど、スイスだからチョッコレットにした。
どんなものが出てくるのやらと思ったけど、チョコレートドリンクだった。ココアではない、チョコレートミルク。

このいかにも適当なチーズがおいしい。
グリュイエールのほうがエメンタールより好き(ほとんどの日本人はそうだと思う)

バターの開け方がわからなくて、別のにしたり、爪を立てたりしていたら、お店の人が「あけましょうか?」って言って開けてくれた。
チーズ、バター、パン、どれも贅沢な感じではないけど、だからこそまごうことなき本場。全部食べられなかった(味見できなかった)のが心残り。
このベビーチーズみたいなやつとか、なんだろうね。グリュイエールを優先したため、そっちは手付かずです。

そのあと、チューリッヒの町中の教会の鐘が鳴り響くの聞き終えて、ホテルを出て駅に向かった。
フロントはおじいちゃんとおばあちゃんが、この全く英語も何も通じないピンクヘアの日本人を「まあ、あなた大丈夫?元気でね、グッバイ」という感じで送り出してくれた。

駅までたどり着き、予習していた切符の買い方で紙幣を自販機に入れるけどなぜか突っ返されてしまうので、クレジットカードで決済した。無事に買えた。
そして無事に電車に乗り、空港に着く。

ここから空港ではひどい目に合うのだけど、とにかくチューリッヒはとてもよい印象で私の旅が終わることになってほしいので、そのひどい目は別に書きます。


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つよく生きていきたい。