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ついにアートバーゼル

なぜか、私の手元にVIPチケットがきた。

アートバーゼルとはなにか。
世界中の選りすぐりのアートギャラリーのみで開かれるアート販売会。
つまり、アートの築地みたいなものである。

そこに、スーパーでたまに切り身魚を買うくらいの人間がいくのだ。
魚をさばくことも、三枚おろしもできないのに、築地のセリにいったらどうなるだろう?想像してください。ターレで轢かれる。
ターレがわからない人は、おググり下さい。

まあ、ターレに轢かれるつもりで、14時間のフライトをパニック発作で震えながら耐えて大金を投じてきたわけです。

なぜ?
絶対やらなくてもいいことだ。
お金もかけすぎ。

でも、行かないで生きるこの先の人生は想像できる。行けば人生が変わるとは思わないけれど、行かない生活よりも何かは違ってくるのはあるだろう。
最悪、なにもなく終わるだけかもしれない。
そしたら、後々「私、アートバーゼルのVIPデーに行ったことあるんだけど」「香港バーゼルじゃなくて、バーゼルバーゼルね、スイスの本家」「そうそう、ヴェルニッサージュの日ね。あっ、通常のヴェルニッサージュとは違って」とドヤ顔をする材料にしたらいい。

通常のヴェルニッサージュはシャンパンやフィンガーフードをつまみながら社交する前夜祭的なものらしいけれど、今回のはただ「一般公開前に入れる」という意味らしかった。

「買う人向けってこと」と案内人があれこれ教えてくれる。
ご自分は、出展してるギャラリーの人に挨拶してまわるために来たらしい。ついでにめぼしいものを見つけてちょっと話をつなぐということらしく、私は適当に見ていた。

とりあえず、ただ今日はアートバーゼルを歩き回った印象だけを記しておく。

とにかく、どこにあってもピカソはピカソとわかる。やべえ。
現代アートは、嫌う人が多いけど、それはただ見てないだけ。
あきらかに「すべてが一定のクオリティをこえたものだけが大量に集まる」ことは、一撃で人の固定概念を壊す。
多様性と、クオリティは別モノ。クオリティの低さを「多様性」と言って逃げるのはダメだ。アートバーゼルでは1mmも通用しない。
クオリティとは別に、個々人の好みはあるし、好みも素人臭いものから玄人肌なものまで、やはり格の違いは存在する。

文化文脈をこえてでも面白いものは、すごい。
しかし文化文脈を踏まえて意味をつける技術がなくてはそういうすごいことはできない。

アジア人すくない。

ヨーロッパの文化文脈は長い歴史があるから、なかなか大変。

日本は、信じられないくらい、軽い。
身捨るほどの故郷。
日本は、存在しない。日本語はない。
私は言葉を失う。比喩ではなく、現実的に失う。
私はテレビを見てないので、日本すごい系の番組を詳しくは知らないけれど、日本はすごくないというより、ない。そもそも、ない。
無。
存在しない。

「でも母国語以上の語学力は誰も永遠に得られないのが原則」

日本語の語学力は、私はあるだろうか。

並んでるものがどれもこれも億単位なので、自分のこととして考えるのを放棄する感覚と、その感覚が自己決定権を捨てる時の甘えに似ていて、少しぞっとする。

買えること。
ただ見るではなく、買うという選択肢があること。
そこに突然「自己決定権」の存在を見出さざるを得ない。
諦めるにせよ、買うにせよ、自分が選ぶのだ。
美術館で絶対自分のものにしようという選択肢のない中で見つめるのとは、体内の反応がまったく異なる。

見た目にきれいで美しいことと、好みであることと、「買いたい」と思うことと、家に置きたいと思うことは、どれも違う尺度で、「きれいでこのみだけど別に欲しくない」というものがたくさんあって、びっくりした。
美しいだけではダメなのか。
その理由が自分でも判然としないのに、判断はできることに不思議な気もした。

アートを買う理由は、人によってまったく異なる。
投機的な買い方ばかりが槍玉に挙げられるけれど、それ以外の購入動機について、みんなもう少し知ったり自分で感じ取ったりしてもいいとは思う。
でも金持ちに意地悪なことを言いたい気持ちもよくわかる。

金持ちは、揺るぎなき貴族の系譜か、戦乱のどさくさで悪いこともしてぶち上げるか、ビジネスで成功するかの3パターンくらいしかない。

知性は必要だけど、知性だけでは足りない!
美貌もあった方がいいけど、美貌だけではダメ!
文武両道的な総合的アプローチがすべてに必要。絵を買う側も、絵を見るだけの側さえも。ただ自分のセンスを勉強で見失うと、勉強なんかしないほうがいい結果になる。
しかし勉強はしないとものの役には立たない。
つまり、常に自分の感覚を失わずに、それでいて知識をつないでいく。

しかし、これから絵を描く人はどうしたらいいのだろう。
現代アートのフロアには、新しい絵がたくさんあって、それぞれに自分の絵を描いているように見えた。

それは、真似たり似たりしてはいけないということでもある。
ここでまた人間の厚みを問われる。
薄っぺらいなら、薄っぺらいまま描くしかないのだろう。薄っぺらいのを厚そうに見せるのが一番いけない。
でも厚くしたいから、いろいろやってるのに。
悲しいよね。

世界トップクラスの作品でも、どれだけ有名でも、自分の好みを捨てた時に、その作品と対等にはなれなくなる。
しかし自分の感性さえ生きていたら、ピカソともジョットとも大観とも対等である。(彼らの作品との関係であって、作家本人との関係ではない)

芸術性という曖昧模糊としたもの。
値段はついてた方がいいし、アート作品に関しては高いほどいいと断言できる。アート作品に関しては「安くてよいもの」は存在しない。
(日用品や食べ物には安くて良い傑作品がたくさんある。例えば牛乳石鹸や、コンビニのおにぎりなど)

他人がいいと言ったからいいという判断をした瞬間に「ダサい」という烙印が押される。
好き勝手に好みを言えばいい。
売る側と見る側・買う側(鑑賞目的として)は、視点が異なるべき。売り手のお墨付きを選ぶのは、してはならない。
有識者の助言が必要な範囲と、不必要な範囲を的確に線引きできることが必要。
もし自分の好みがダサかったら…?
それが自分なんだから、それでいいじゃん。ダサくて意地汚いなら、「そうだねー」でいい。
世界にはもっとダサくて意地汚いリッチマンがいっぱいいるから!みんないいスーツ着てるよ!

ちなみに今回の水先案内人はアート業界長いらしいので「あっ、そこに立ってる人どこそこのギャラリーのめっちゃ偉い人!」「あっ、今の若いアジア人、割とえげつない商売してるやつ」みたいな、業界での有名人を見つけては「あの人!あの人も!」となるけど、私にはみんな他人なので、逆に面白かったです。

あと、こんなアート市場動いてるのに、日本では日本で生まれ育った画家を食わせる力がないのはちょっと可哀想だなと思った。
かと言って海外でやればいいのかというと一概に言えない気もした。

ウケは大事だけど媚びはダメ。

あと、アートの売り買いは築地のセリ並みにおプロの仕事なので、そういうプロも裾野を広げて育てていった方がいいのではないかと思った。
そういうセンスある人いると思う。

芸術性って曖昧だけど、アートバーゼルには芸術性も一定以上のクオリティをクリアしたものだけが並んでて、独特のオーラがあった。
まず、独特の清潔感がある。展示の仕方のせいかもしれない(展示の経費をケチらない)。
一定の技術や品質をこえればそれだけで芸術性は少し高まるけれど、それを踏み台にさらにジャンプしているものばかり。
そこまできてやっと「芸術性の多様化」みたいなテーマが出てくる。

わけのわからないものを芸術と言って逃げてはいけない、というとある人の言い回しになるほどなと思ったけれど、曖昧な芸術ではなく、飯食ってる芸術はやっぱちょっと異次元。芸術性で飯を食う。

「作家はアートフェアにいると居心地悪い」と言ってる人がいたけど、さもありなんと思った。
そこは作品のみの世界で、作家の話はあんまりしてない。
こっちの勝手な解釈。
ただ、ホンマもんは、勝手な解釈まで本人の表現したいことがぴたりと重なるのだろう。

まだいろいろあるんだけれど、エネルギー切れと睡魔が来ているので、とりあえずここまで。

睡眠薬のない眠りはとても喜ばしい。

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