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愛も理解も軽々と超えるお金の力

お金のすごく好きなところは、愛も理解も必要ないという側面があるところだ。

世の中は条件付きの愛や、パワーゲームやポジショントークの理解に溢れている。
かわいくて言う事をきかなければ愛されないとか、愛嬌のある態度を適切なタイミングでとれなければ愛されないとか、そういう謎のルールがたくさんあるし、自分の言いたい事も理解される事はマレである。
そんな荒野を、お金は軽々と飛び越える。

お金が欲しいから、バイト先では何を言っているかよくわかんない上司のいう事を黙って聞いている。
何をやっているか理解していないスーパーでも、お金を払えばニンジンをうってくれる(お店にあれば)。

相互理解、コンセンサス、エビデンス――――
そんなものは不要である。

愛する娘の為にきれいでかわいいお洋服を買ってくるような親が居なくても、自分でお金を出せばきれいでかわいいお洋服は買える。
「買ってもらう」事が愛情の証左なのかもしれないが、愛がなくても金があればその証左にされた服は手に入るのだ。

あまりに、殺伐とした考え方?
そうかもしれないけれど、逆にこんな便利なものはない。

愛されなければ美しい好きな服を手に入れることができなかったら、どうしたらいいのだろう。愛されるために、いくらでも自分を偽るかもしれない。
理解されなければ欲しいものが手に入らなかったら、どうしたらいいのか。これから生み出される前衛的な一皿の為に、どうしても必要なシメジも、「通常そのようにシメジ、またはきのこを使う料理は存在しないので」と拒否られるかもしれない。

愛も理解もいらない。
これほど自由であり、独立し、自立している存在を使える。
なんという圧倒的なすばらしさに満ちているのだろうか。

逆に愛や理解はお金で買えないという人もいるだろうけれど、そんな事はないと思う。愛を感じられるようにお金を使えばいいし、理解を得るような方法をお金で探せばいい。
むしろ、お金がない状態では愛を伝える方法も限られていくし、理解を得る方法も狭まっていく。

お金は、愛も理解もいらない。

その一点だけで、私はとてもお金が好きだ。
善意も悪意も、お金の前では全く意味がないのだ。

ただ、お金はお金の量という圧倒的な指標があるので、そこでできない事というのはたくさん出てくる。お金があれば何でもできるというわけではない。
適切に、小さなお金であろうと活かしきる力を持っている人が、お金の価値を引き出せるのだ。

2億円を漫然と持っている人よりも、500万円をめっちゃうまく使える人の方が圧倒的に幸せだと思うし、そこを目指したい。
その技術を持った上で、2億円とか狙っていきたい。

お金では絶対に買えない愛も理解もあるだろう。
しかし、些細な事では、お金は愛も理解も必要としない。アイスを買うのに、100円あればいい。そこに「我が商品を適切に理解しているか」とか「愛しているのか」などと問われる事はない。
それがどれほど素晴らしい事か、どれほど人を自由にするか、たまに考え、こっそりと感銘を受けている。


その自由があるというのは、それだけ社会が安定しているということでもある。お金の価値がある日突然吹き飛ぶとか、政府の意向に沿わないと食料が手に入らないとか、そういう社会の地域はやっぱりまだあちこちにあるし、なんなら日本だって戦時中などはそうだった。もっとさかのぼれば、江戸時代、戦国時代、お金の価値なんか大したことなかった地域はたくさんあった。身分でがっちり区分けされちゃったりね。

お金が愛も理解も必要なく自由であるということは、社会がそのように回っているということでもある。

そういう事を含め、お金が愛も理解も必要なく、家柄も出自も問われない自由な存在であることは、胸を打つのだ。

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つよく生きていきたい。