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お前はアートバーゼルを見て何か変わったのか

これは推敲をしない方がよい文章だと思うので、とても長い。

アートバーゼルに行って何が変わったかというと、いうてチラ見した程度で何かが変わるもんでもないんだけど、日本に戻って宝くじのCMで最大でも12億円というのを見て「宝くじ当たっても、あれは買えないのか」というのが最もリアルな感想だった。

有名な作家の新作などもガンガン来ていたらしいけど、「あっ、見たこれ、あった」という印象。
「あの有名な!?」となるほどわかっていない。

この狐を見た時、その場で私が考えてたことは「赤いきつね」だなって。
動画で見るとオレンジっぽいけど、もうちょっと赤みが強い印象だった。

逆にこういう情報として出されると、わからなくなる。
見たのかどうかもわからなくなる。

ジェフ・クーンズ。犬の風船の人…。
クーンツかクーンズかもあやふや。
もちろんこの赤いきつねを見た時は、作者なんかわからなかった。
ぴっかぴかの赤いきつねが緑のトカゲのようなものをくわえている。とにかく反射がひどくて、あまりに反射するものは本体がよく見えなくなるのだと思う。
そういえば、ほかの有名な作品である犬の風船も徹底的にテリテリと反射していたっけ(今思い出した)
今さら動画をよく見たらくわえているのはトカゲじゃない、鳥っぽい。

そんな大きくなかった。このくらい。(と、両腕を広げてひとかかえくらいの大きさを示す)
普通の、キツネくらいの大きさ。
アート作品はものすっごく大きいものがよくあるので、普通って言い方もどうかと思うけど、特別大きい感じはしなかった。

だったような気がする。

ご本人のツイートを見ると、with birdだった。トカゲじゃなかった。緑だからトカゲだと思い込んでいた。
(そういえばバイエラー財団の庭でトカゲを見た。あからさまな緑色ではなかった。スイスのトカゲも日本のかなちょろと似ていた)

とにかく、一気にアート作品が並んでいると、大きさとか形や色が意図的にバグらせてあるものが多いから、いろいろわからなくなる。
映らない鏡とか売ってた。


一気に並べることで傾向と対策というか、今年のトレンドを見出そうとする人はたくさんいると思うけど、例えばそれが服などの同一の形状を持っているものならそういうことは可能だと思う。
でも、ここまで自由形で来られると、わけがわからない。
そこに、古い時代の、ピカソなどが入ってくる。華の1920年代はもう100年前の話だ。最新作とここ100年間のものが同列に並んでいる。
一回見てわかるようなものではない。

「有名だからすごいと感じる」のかとも思ったが、それでは追い付かない。
そういうこともあるし、億の値段がついているからすごいというのも、人間界の価値として当然なのだけど、作品の価値というのもある。
ピカソはこれだけ多種多様な人たちの作品の中でもすぐにピカソだとわかる。異様だった。私も知っているから、というだけでは説明しづらい存在感があった。
とはいえ、ただの絵だ。別に生物兵器でもないし、特殊な電波を発信しているわけでもない。なのにそれがピカソだと誰もが認識できる。

人は、わかるものしかわからない。
私も人なので、わかるものしかわからない。
その狭さと不自由さをものすごく感じたし、私の狭さの外にはたくさんの価値観があることも分かった。
同時に、彼らもそれぞれの狭い世界にいるのだろう、というのもわかった。
私の狭さの外にいる人たちが、それだけを根拠に自由であると信じるのは浅はかだ。
前は、自分の感性の外側にいて、なおかつ大金を持っていたり、権力があったり著名であることは「自由」なのだと思っていたのだけど、それは私が希望として思っていた事であって、彼らは彼らの苦痛と狭さと不自由さを持っている。
私はプライベートジェットは持ってないけど、それを不自由だとは思わないし。(エコノミークラスで14時間フライトはつらいけど)


表現のトップに行くのか、とにかく金が欲しいのか、そのせめぎ合いのまさにど真ん中にいる事は、面白かった。
よくわからなかったけど、それはとても面白かった。

作品がよいのは大前提だけど「なぜこの作品を作ったのか、何を表現しているのかをはっきり説明できないとダメ」と案内人のアートディーラーが言っていた。
「そこはかなり強く求めらる」

社会に対する曖昧な不安、とかじゃダメなんですね。
それが許されるのはもう高額作家枠の大御所だけなんだろう。
ぴよぴよのひよっこが「そこはぁ、見た人の印象で決めてもらえばいいっていうかぁ。自分では決めたくないところかなって思ってて」と言いがちだけど、一瞬で灰になるあれだ。
決めて説明して分からせろ。というルール。そういう競技。


ちなみに、事前にどこを見たらいいのかと案内人に聞いてみたけど、おすすめリスト一覧自体が多すぎて、見ても全然わからなくて、スライムのように溶けた。
予習さえできない。

よくわからないまま、会場に放り込まれたという感じだった。

日本の展示会(アート以外の、普通の展示会)が何をやっているところか知らない人が行ったら、もう完全にわけがわからないと思う。
私はイベントコンパニオンで展示会ブースで働く経験もあったので、少しは理解するところがあった。
アートだなんだと言っているけど、単純にあれは商談しているだけだ。
特にVIPデーはただの商談会場だった気がする。
二日目、つまり一般公開初日は、作品を見たいだけの人が結構入ってきたから雰囲気が商談会場から美術館寄りになった気がするんだけど、基本的にアートフェアは「観る」場所ではないんだなというのが私の感想です。

最初、案内人は「買える美術館だと思えば」と言っていたけど、私は今のところ億の金は持ってないので買えない。
その上、現場に来たら美術館でさえない。
ただの商談会場だ。
最近の展示会会場は商談ブースよりオンラインでひたすらライブ配信しているブースのほうが多いのだけど、そういうのはなかった。VIPデー、マジでただの商談。ただの美術鑑賞愛好家が楽しめるようなものではない。
買う気があっても、それこそ専属のディーラーがいないと無理だし。
(私はディーラーがそこにいたけど、金がないという最も珍客なパターン。金がなければディーラーは基本的にいないので、金がないのにそこにいるという時点でおかしいが、たまにそういうババというかジョーカーは生じる。世界の秩序において)
それに、有名な大物は大体もう買い手がついているでしょう。
ここはただのお披露目というか、一般公開もしている関係者内覧会みたいなもんだろう。それにしては金をかけてやってる。
それでもペイできるなにかがあるんだろう。金額的には赤字だけど出すギャラリーが多いと書いてあるものを見たけど、だとしたら金よりも価値のあるものがそこにあるからだ。それは結果として金を呼ぶ。

だから、アートフェア自体は、ただのビジネスの場なので、一般の美術愛好家が見ても全然楽しくないと思う。
もちろん本物を見れるのはいいと思う。かなり近くで、生々しく見れるし。

美術館が動物園なら、アートフェアはサファリパークのようだった。
ルールはあるが、柵がない。檻がない。
自力でコンタクトを取らないといけない。いろんな意味で。

そこにある限られた狭い社交ソーシャルを眺めるのも面白いけど、しゃべれないやつに社交もクソもないだろ、みたいなところが現実。かといって英語やフランス語などがしゃべれたらいいのかというと、どっちかというと財力のほうが重要。
財力とセンスさえあれば、通訳を買って出る人はたくさんいる。みんな金が欲しいから、いい仕事する。


持続可能な美術鑑賞(最近の私のテーマ)においては、頑張って海外のアートフェアを覗きに行くのは、コストがかかり過ぎてキツイ。
ただの観光のおまけで行くなら、面白い。
アーティストが見に行って参考になるのか、勉強になるのかというのは、よくわからない。ただ、この世の厳しさというか冷たさがどのくらいの温度なのかがわかるのは良いことかもしれない。
自分の絵を、作品を、ピカソの隣に置くビジョンがあるか。
そういう視点を一度でも持ったことがあるかどうかは大きいと思う。
アートバーゼルに自分の作品が行くのなら、それはピカソの隣に置かれるということでもある。
勝ち負けでも、優劣でもないが、あきらかにジャッジされる。
ジャッジされても揺るがないものはあるか。
そういうものが試される気はする。
あそこには世界中をつまはじきにした後に残ったものだけがあるのだから、ほとんどのものはつまはじきにされる。あなたも私も。
それでも残るもの。それでもそこに行く者。

個人的には、そういう事がわかったのは収穫だった。

後者は今だからわかったことかもしれないけど、前者はもっと早くに知っていればよかったな、という気もする。
自分がピカソの隣に置かれるビジョン。バスキアでも、デ・キリコでもデュシャンでもモネでもポロックでもいいけど。

そして、彼らと競うことではなく、彼らの隣にあっても「自分スタイルでいられるか」というのが大命題という事も。
比べられるかどうかではなくて、となりに平気でいる強度
会場をただ見ていただけだけど、一瞬でもひよったら死ぬことはわかった。でもプロトコルは守らなければいけない。

これは、ただ美術館で絵を見てもわからなかったと思う。
有名な教会で、有名な絵を見ても、わからないだろう。
そこはそういう特別な場所だと、そういう思い込みで見ているからだ。
「俺の絵をシスティーナ礼拝堂に飾ってほしい!」と言い出す人は、ちょっと周りに心配される。もちろん悪い意味で。
でも、アートフェアで「俺もピカソの隣においてほしい」と思うのは、割とまっとうな進路だと思う。
時に、それは叶うことだろう。非現実的な話ではないのだ。
システィーナ礼拝堂は無理だ。非現実的な話だ。

この「現実・非現実」の線引きができたのも、収穫と言えば収穫かもしれない。想像での現実・非現実ではなくて、チラ見だけど現実を見ての線の引き直し。

近頃はアート制作をちょっとした副業や小銭稼ぎとしてやりたいと思っている人のブログばっかり見かけるけど(そういう人は作品作りよりブログ書くから)、そういう世界がアートだと言われると、「そうかこれが原初のアンデパンダン展」ってなる。
自称アーティスト、日曜画家が多ければ多いほど、その分野の裾野は広がり、市場が大きくなる。
つまり、ほとんどは市場の養分になっていくわけだけど、その養分が何を育てているのか(誰がその養分を吸い上げているのか)は見極めないといけないし、アートバーゼルで流れている金の量はなんちゃってアンデパンダン展たちが束になってもひとつの作品の価格に届かないのだから、人間自分の居場所と流れを少しは把握するべきかなと思った。

なんちゃってアンデパンダン展な人たちが吸い上げられているのは、アートの世界でさえない詐欺師たちの世界だろうし、だったら身を捨ててでもアートの世界に食い込むべきなのか、アンデパンダン展で有名になってそこそこよい「職業・画家」でやっていくべきなのか、見極めもつくというものだ。
別に、アンデパンダン展の中で有名になって暮らしていくというのもありだし、それもなかなかむずかしい世界だと思う。才能と技術がいる。

さらにまたアートとデザインは違う話だ!と吹き上がる人たちもいて、一般人としてはめんどくさいなと思うけど、ファインアートと言われるもののど真ん中を見せられると、「彼らはこれを見てからいってるのかな?」という疑問がないわけではない。
美術論とかデザイン論とか学んできた人たちがそれぞれ吹き上がっているんだから、それなりにわかっているんだろうという前提で素人の私はその話を聞くわけだけど、彼らはこういう景色や現場を見て「アートが、デザインが」と言っているのかどうか、どうなんでしょうね。
全員が必修で見ているわけじゃないから、見当はずれなことを熱弁している人も、ままいるだろうなという事も想像している。
そして、その見当はずれな熱弁に巻き込まれて、そうだそうだ!と勝手に同調してしまっている事も、結構あるんだろうなって。無知のまま。

どっちが正しいのかは知らないけど。
でもこれが「一度、世界トップレベルの現場を見る」ことの力かもしれない。
特にアートは、見てわかるものだから。
見てわからないなら、価値はない。

ここら辺は宝石やジュエリーの世界と似ていて、鑑定だのなんだのという話が出てくるのは大体100万円以上の話で、それ以下のものは「素人目に見て明らかによいものが、良いもの」というとても単純なルールが存在している。(制作に必要な強度の問題などはあるけど、それは別にして)
ルーペで見ないとわからないとか、そんなことを想像しがちなんだけど、素人目に見てよいものが普通によいものです。
それ以上になってくると、微差を顕微鏡で調べて値段が決まるみたいなことになるけど、1000万円くらいはそうかなってことであって、100万円以下は明らかにわかる。その差が。
見ればわかる。わからないなら、それはあなたにとって魅力的ではないということで、つまり価値が低いという事なんだけど、その前にあなたもうちょっとグレードの高い石を見たことあります?見れば一発でそっちがいいってわかるから、一回見てみようか?みたいなあれです。
そこからやっと個人の好みの話になる。
でも怖くてよく見れない、というのが、ありがちな事だ。高価なものだという先入観ですべてが見えなくなってしまうから、それを責めることはできない。貧乏なことは、単純にその人の責任とは言えないから。それによって失われているものも、悲しいけど問う必要もないから。ただ、失われているものの大きさを知ると、とても切ない気持ちにはなる。

(円安のせいで100万円の価値がダダさがりだから、200万円くらいな感覚がちょうどいいのかなという気はする。なんと悲しい事だ)


視覚芸術は、見てわからなければ意味がないんだろう。
見飽きた人たち向けに、わざと細かくわかりにくく作っているものもあるし、変なテクスチャーになってることもあるけど、それこそ100万円以上の世界に突入したらの話。
そして、その中でも特別に特殊な価値や意味を付けられたものには、ぽんぽんと億の値段が付けられる。
そこは「世界の気まぐれ」みたいなものだし、金持ちの金の価値は金を持ってないやつらの金の価値より安いので、高い値段をつけてもなんの問題もない。世界の気まぐれは、みんな読み取って一歩先を取りたいと思っているけど、それこそ気まぐれなので裏を掻こうとすると逆に足を取られる。
新しい潮流を作りたい!と意気込む人たちも多いけど、それだって所詮誰かの気まぐれだし、誰かの気まぐれが世界の気まぐれ。

意思と意図と、偶然や気分の両方が存在している。
どっちかだけという事はない。
そういうのが、アートの世界を形作っているようで、そこが感じられたのも良かったと思う。
売らんかななギャラリーたちの思惑、売って頂きたいという作家たちの思惑、買ってやろうという金のある人たちの思惑、全部下心で回っているところも面白いし、そういうシステムで「無垢なる作品」が乗っかって動いているのも面白い気もする。
動かす者たちは、自らは動かないものを運ぶ。

その仕組みに乗っかってデカく稼ぎたいという気持ちも、誰もが一度は持つだろうけれど、エントリー枠の数はそこまで多くない。
狭き門をくぐるか、その門の前に弾かれて諦めるか、それをただ見ている側としてはある意味どっちでもいいんだけど、作る側というか表現者側の孤独と苦悩はわからなくもない。
が、生みの苦しみと、作品のクオリティと、作品に対する評価や価値は、ぜーんぶ別の話だ。
さもつながっているかのように物語ものがたられるけれど、それは終わってからの話であって、渦中にいる時は全部別のことだ。
努力そのものにまったく意味はない。
あとから物語の重さとして使われることはあっても。

赤いきつねがどんな苦悩の果てに生まれたか、あるいは別に苦悩とかなくて楽しく作られたか、なんてわかんないもの。
値段と、誰の作品かと、そのもの。
「赤いきつねだな」「よく反射するな」「このくらいの大きさ」
そういうことだけ。あとから誰が作り、値段がいくらかというのを知る。これがいくらかは、知らないです。

作品個別の意味もあれだけど、コレクションになった時に燦然と輝く、みたいなものもたくさんあるので、沼っぽさは感じる。
1個でもいいけど、複数ある時に見える思想。


さて、個人的にじゃあ何が欲しいかと思うと、結局自分が最初に美術鑑賞する入り口になったシャガールのサーカスの素描を1枚、というのが一番の理想形かなという気がしている。

でも今さら死んだ人の絵を買うより、今生きている画家の絵を買ったほうがいいような気もする。個人的な感覚としては、金が生きるのはそっちの方だとも思うので。どこで金を使うかで、人に恩を売れるわけだから。

個人的な思い入れと思い出 vs よい金の使い方。
どっちでもいいんだけど。
そこに億と突っ込める余裕というか、勢いってどんなものかなとちょっと考える。勢いでやろうとするからよくない。もっと、違う、方法で。
その金を作る方法は、私はアーティスティックな方法になる。いわゆる普通の方法ではできないから。アウトローだけど、ローは侵さない。
金が必要だneed money。生きるために。


アートバーゼルでは、ただ見てきただけで本当に何もわかっていないのだけど、世界の中で自分がいる位置が少しだけ感じられた気はする。

世界のとらえ方も、なんとなく感じられた。

何も知らずにあれこれ言っている勢いは、知らないから言えることでもあるし、知ったら言えなくなるのなら一生知らないままで頑張っていく方がいい事もあるだろうし。かといって知らないであれこれやる弊害もあるというのもわかるし、どっちがいい、どっちが正しいってもんでもない。

分からないやつにとってはジェフ・クーンズの新作も「赤いきつねと緑のトカゲ」。だいぶ間違っている。現物を見たのに。

赤いきつねの印象はもちろん日本のポピュラーカップ麺のこともあるけど、私のヨーロッパの主成分であるアガサ・クリスティー作品の描いた狩りの描写にかなり引っ張られているし(おそらくABC殺人事件)、結局自分の中の数少ない知識と印象と文脈でとらえているということだ。
日本語の世界で捉えている。英語や、その他の言語で捉えているわけじゃない。

何もわからない状態で世界的アーティストの新作を見る、という体験は、すごく面白い。なにもわからないけど見ていた。歴史の重要な瞬間って、大体こんな感じなんだろう。
赤いきつねが歴史の重要な瞬間というわけではないけど。

だとしたら、あとから答え合わせをするのは、ズルなのかもしれない。
でも答え合わせをしてからが本番なので、むずかしいところです。



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