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表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬を読んだ

なんとなく立ち読みして、これは面白いと思って買ってきて、ずいぶんスッと読んでしまった。あっさり読んでしまったことが少々もったいない。

ちょうどリチャード・ブローティガンの「西瓜糖の日々」も読んでる途中だったけれど、その合間にスッと読んでしまった。

異国に出かけた理由は、いろいろ格好つけようとしても陳腐なものになる。
全体を覆う諦めと、人を小馬鹿にしたような小気味のいいロマンチックさ(そう、キューバだもの)。
そして、別にこれといって話題になることのないエピソード。
そんなものがとつとつと綴られている。

それらが結局は、東京の日々の違和感をときほぐす糸口になっていく。

いや、答えなんかとっくにわかってる、旅行でいくキューバに今さら新しい何かがあるわけもない、すでに映画や小説で描き出されるひとつのフォーマットにさえなっているのだから。
でも、リアルにそこに行った人の肌触りがあるのは、すごくいい。

若林正恭氏の事は、オードリーをちょっと知ってる程度の事で、ラジオが人気だとか、そういう話を聞く程度で、全然わかっていない。たくさん本を書かれていることもはじめて知った。そういう前知識がなくても、全然問題ない。

東京ではかつて思い描いた生き方はもはやできない

東京ではもうかつて思い描いたような生き方は、おそらくできない。95%、できない。
そこにどう折り合いをつけていくのか。
ずっとこの95%という数字がついてまわる。

そもそも、なんで全員が幸せにならなければいけないのだろうか。平等でなければならないのだろうか。
全員が平等であることを突き詰めようとする社会主義スタイルのキューバの暮らしと、人よりも金を稼いで人よりも金を使ってオシャレに素敵に暮らそうと突き進むNYや東京の暮らし。
それを並べると、平等といいながら平等でないし、みんな配給じゃない服を着たいしスマホを使いたいキューバ。それにみんなとは違う生き方をしたいと呻きながら、その目指す先は全員同じ「金をもって金を使ってハッピー」という平均的なステレオタイプに行きつくNYや東京。

いい、悪いを別にして、この世界の仕組みがほとんどの「悩み」を決めているという側面を見ることになる。それは、社会の仕組みが違う場所にいくとよりはっきり見えるのだろうし、だからこそ人間の同じ側面も際立って見えるのだろう。

私はキューバにいくつもりはないけれど、それでもそれを少し感じてみたいという気持ちになる。
そのくらい、この本の中では東京とキューバはひとりの書き手のおかげで地続きになっていった。

この本を説明するなら、多分ちょっとした哲学書とちょっとした社会学の入り口のようなものに、非常に個人的な記憶や思い入れを重ね合わせたもの、とでもいえばいいだろうか。

最後の章になると、じゃあなんで負けたと自覚がある東京に住み続けるのかという露骨な問いに、ひとつの結論はすでに出ている事がつづられている。
ちょっと悲しくなるエピソードと一緒に。


人は悩むと旅に出る、というよくあるパターンがあるらしい。

そのパターンが魅力的なのは、結局のところ、その悩みの質の高さと表現力を持った人がそれを紀行という形で人々に示してくれるからであって、ほとんどの悩める旅人は悩んだまま旅に出ても、大した感銘もなく帰ってくる。
個人の感性と知性以上のものを得る事は不可能なのだ。受信体の限度というものだ。

私がキューバに行っても、こんな感覚は得られるだろうかというと、とてもあやしい。子供のように無垢で、負けてつまはじきにされた人間らしく気弱でひねくれていて、しかしながら一定の評価を得る体験と表現力を持ち合わせている人が見たキューバと、その前のニューヨークと、それから東京。
どれも、私が見ても同じ場所だけれど、感じるものは違うのだ。

受信体の精度の高さの違いを、この本で際立って感じたし、同じような旅は私にはできないだろうという感覚も感じた。
じゃあ、私はどんな感覚を得るのだろうか。

かつて行ったニューヨークは、ニューヨークである事よりも「日本でない事」のほうが大きな意味を持っていた。
スーパーで売ってる小さくて変な形の林檎とか、ストローに入って売っているはちみつとか、雀の形が日本よりなんかごついとか、そういう事に妙に感動した。

今ならもう少し違う事を考えられるかもしれない。


キューバに憧れはない。
この本の中でも、憧れの地としては描かれていなかった。
それが、とてもリアリティがあった。

面白い読み物としてはほんと楽しませてもらったし、切り口が目立たないけど鋭い名刀をわざとなまくらに使っているようなちょっとした意地の悪さもよかった。

で、やっぱり、紙の本で読んだことが、なんかしっくりきた。
電子で読んでも内容は変わらないけれど、おそらく、キューバという言葉の持つ「全員に共通して喚起させるノスタルジア」のようなものを、私も多分望んでいたのだとあとになって思った。

どんな人がどんなふうに住んでいて、どれほどの悲惨な出来事があったのか知りもせず、勝手にノスタルジアを得ようとするなんて、ほんとにバカなことなんだけれど、そう思う気持ちが私の中にもちゃんと存在していた。


行ったこともないキューバ、映画も見た事のないキューバ。
世界史の近代史でしか知らないキューバ。

本当はなにひとつ知らない。

砂浜はとても美しく、海は青いらしい。


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