見出し画像

新しくて古いビジネスをやろうと思う

ずっとこのところ、自分がどんなビジネスを作りたいのか考えていた。

インターネットやSNS、モバイルガジェットの発達で、作り手・売り手とユーザー、買い手、消費者と呼ばれる人たちの関わり方がかなり変わってきた気がする。

まず「消費者」という位置づけを、何とかするべきなんじゃないかなと思うんだ。

消費者というのは、すごくマスな見方で、すごく大ざっぱなもので、ヘンな話個人に紐づいていない。モノを購入するという行為を擬人化したものというか。

この「消費者」という位置づけが、いろんなことをおかしくしてしまっている。お金を払う人がエライ、企業や作り手は消費者様のご意見を第一に考え行動するべき、というのが通説となると、消費者という仮面さえかぶれば何をしてもいいという不届き者も出てくる。
消費者というカテゴライズをするせいで、企業側作り手側も、ヘンに媚びたり雑だったり馬鹿にしたようなものを作ったりする羽目になる。
ような気がする。
印象だけで、確証はないんだけど。

この大量生産大量消費による経済成長という世界が終焉を迎えた今、新しくて古いビジネス体系に戻らざるを得ないところが多分にあると思っている。

古いビジネス体系に戻るというのは、大量消費からもっと小さな単位に振り戻し、地産地消的な地元のつながりだけで回していくような経済範囲の縮小。顔見知りだけが買っていくような、元祖小商い。
信用第一、ウソはなく、実直で、利益は少なくても継続こそが最も重要とされ、大きな商いになるほど地元に利益を還元し、関わる人が増えるほど若者を雇って教育したり育てたりする機能を持つ、極めて社会的な存在。

しかし、それがよいとばかりは言えない。
田舎では今でもそのような地続きの関係が強固だけれど、それによる弊害も山ほどある。

そこから脱却するために、この大量生産大量消費の時代があったのだとすると、無駄に戻すのはそれこそ意味がない。

大量生産大量消費は、私たちに新しい自由をくれた。

一人一台携帯やスマホ、PCを持たせ、テレビがあり、欲しいものが買える環境が整った。
(と同時に買うための経済力は若い人ほど失われていく状態に突入した)

この新しい自由が、新しいビジネスを作る事は間違いがない。
でもそれは、単なる新興IT企業バブルの事ではない。
いわゆる一般の、いつもなら「消費者」と言われる立場でしかいられない人たちが自らビジネスを起こす可能性を広げたという事だ。


今までの古い商売は、それなりのバックボーンがなければ商売ができなかった(のれん分けとか)し、誰もが好きなところからものを買う事もできなかった。誰もがお金さえ持っていれば伊勢丹で買い物ができる時代ではなかったし、セレブが末端のコーラなんか買うような事はなかった。
それを「消費者」というペルソナがすべての枠を取り払って、民主主義的な平等を与えていった。

お金さえあれば買えるという平等。それは大量生産大量消費のための「消費者」が存在するために必要な条件だった。家柄や生まれで差別されない。地理的な部分も、大量消費のためにはどんどん輸送網を発達させ、通信販売もはがきから電話、FAX、そしてインターネットで取り寄せる事が可能になった。

平等を手に入れ、自由も手に入った。
それと引き換えに、手間がかかる手仕事や意味がある伝統的な技術や知恵も破壊された。お金がなくても回していける社会の機能もかなり失われた。お金さえあればという平等は、お金がないものには冷たくあたり、お金を得るために手段を選ばなくなった。「消費者」が暴走し始めた。
それは、売り手や作り手、企業側が消費者を暴走させたと言い換える事もできると思う。

だから、新しいビジネスは、そこから脱却しなければいけない。
それは理想論というよりも、目の前の問題解決のための泥臭い対応のひとつでしかないと思う。


新しい技術は、「消費者」というペルソナを破壊する機能を持っていると思う。
SNSの発達により、個人が初期インターネットという無個人による交流という空間を破壊し、神々の黄昏はあっという間に終わってしまった。
無個人が終わった。
なんとなくマイナンバー制度は、その最後の鉄槌のようなイメージがあったりなかったり。戸籍制度は重要だし、マイナスに作用するものではないと思う。運用が非常に重要な問題になるけど。
結局、人はつながりたがるのだと思う。

そのつながり方に、無個人=匿名、誰でもない者、というペルソナが存在することに多くの人が気づき、その力を行使した。
無個人としてでないとできないことがあり、それを実行したことで、個人たる自分自身の存在に力があると実感する体験がうまれたりもした。

その無個人という立場がうまれたからこそ、新しいビジネスができると思う。


ユーザー参加型のフラットな商品開発が注目を浴びているけれど、その一方で突出した天才型職人の技術をつぶすことにもなる。
全員が参加することで、全員の能力をつぶし合うなんてことも、よくあるだろう。
だから、単純に消費者をユーザーとして「参加型」のビジネスを作るというのは、ちょっとムリがある。一部をエッセンス的に取り入れるというなら、まだうまみはあるだろうけれど。

そんな中で、どうやって全員が同じテーブルでフラットにかかわりあえるだろうかと考えていた。

ひとつの解決策になるのではと目される「贈与経済型モデル」も確かに有効だと思う。贈りあう事で交流する経済のモデル。
ただこれは消費型経済になれてしまった現状では、ハードルが高まってしまった。確かに効果的だし、高い理念がある。が、高すぎる理念となってしまった。

それに対し、もう一つの可能性として、クラウドファンディングという方式も出てきた。
欲しいと思う人がお金を出し合うという、消費者が出資者になるというやり方だ。
どちらかというと、この方がはっきりしていていいのではないかと思う。
高い理念はないが、モノは欲しい。そのビジネスを応援しているし、続けてほしいと思うが、かかわり方がわからないという人に向けて、500円くれたらこれあげます、という提示をするのは原始的な取引にあたる気がする。

贈与経済型ビジネスモデルをバックボーンに置きながら、クラウドファンディング的なやり方で細かくリターンが発生する事によって一回の取引はその場で完結する。

クラウド型は、個人は極めて無個人に近い。
消費者というペルソナが与えてくれた、個人から離れた自由を持っている。

それによって支えられるビジネスは、古来よりの小さな具体性がはっきりある。ただそこに個人の顔が見える必要は、あまりないと思う。
だって、トマトを作っている人の顔写真が、何を意味するのだろう。
それよりもそのトマトの土壌がどうなのか、そこにどんな関わりをしているのかというほうがよほど重要な情報なのに、顔写真を貼れば「顔が見える」とするのはあまりに稚拙で「消費者」を馬鹿にした態度だと思う。
彼らは言うだろう、だって話したってわかんないでしょう、そこにエネルギー割いても売れないし。これが「消費者」が作り手を変えてしまった結果だ。
作り手に馬鹿にされる態度しか取られない程度の馬鹿さ加減なわけだ。
金さえ払ってくれればいいんです、余計な事を言わずに。金を払ってもらうためになら何でもします。
そうやって発展してきた経済を、いきなり「顔が見える」「作り手の意志が感じられる」ものにするなんて、求められているのだろうか。
ビジネスに必要なのは、個人の顔ではない。それさえ必要ないフェーズにせっかく大量生産大量消費が押し上げてくれたのだから、個人に紐づける必要はなく、「事象」に紐づけることが重要なんだと思う。

つまり、これからの「顔が見える商売」とは、個人の顔そのものではなくて、ビジネスモデルとかビジョンとか、どこから買ったか、どこで作ったか、それを作ったのはなぜなのかという、どちらかというと「経営判断」に近い場所にある「判断理由とその行動が見える商売」という事だと思う。

それは、投資をする人、つまり出資者が重要視する情報だ。
消費者を単なるユーザーとするのではなく、関わる人全員が、作り手・売り手だけではなく、卸業者などの仲買人、店頭での販売をする小売業者、そして末端のお客様であるところの購入者とそれを使う人の全員が、出資者的な視点を持ってそのビジネスに関わるスタイルを構築していく。

関わるというのは、別にお金を出す事や意見を言うという事に限定されるものではない。ただ店頭に並ぶのを見ている、いつか買おうかなと思っているだけの極めて淡い関わりから、それを販売することで利益を得ようとする仲買や小売り、実際に使うという事のすべてが関わりになる。
そこにどちらがエライというのは、本来ない。
売り手がえらくてボっていくとか、消費者が偉くてクレームには三倍返しでお詫びをしなくてはいけないとか、そういう対立構造から抜け出す必要があるからだ。

これができるようになってきたのは、それこそインターネットなどで情報が安価に伝える事が出来るようになったからだ。

なぜそれを作り、その値段なのか、その判断理由と行動にどのような理念と意志があり、そこにどのような制限があるのか。それを発信する事が出来るからだ。

その発信があって、賛同者があったり反論するものがいたりする。
なかには自分の思い通りにしろと言いはじめて、そのビジネスを乗っ取ろうとしたり、ビジネスそのものを消滅させようとしたりするケースもあるだろう。
全員が関わるというのは、常にそういう危険がある。
いいことばかりじゃない。

でも、やってみる価値はあると思うし、それは小さなビジネスをやっているものだからこそ挑戦できることだとも思う。
すでに大きいところは、たくさんしがらみがあるし、そのせっかく作ったしがらみによって利益がうまれている事も多いから。


新しいビジネスを作りたい。
誰かのいいなりになる、フォロワー型ビジネススタイルの大繁栄(たとえば松下幸之助だとかジョブズだとか)の結果生じた様々な問題にひとつの回答をしたい。

それは自分自身が居心地よくありたいというエゴエゴしい願いと、様々な社会問題による被害者であった一面をどうにか消去したい、昇華したいというばかばかしい無力な願いと、これで世界を変えた素晴らしい人間だと褒め称えられてみたい自己顕示欲とともに、一部常識外れに見えるけれども最も効率が良く適切な経営方法じゃないだろうかという現時点での最大限良心に基づいた冷静な判断でもある。

失敗するのが目に見えているビジネスなんかしない。
利益を生み出さない商売は、悪でしかない。
しかし、ボるのは論外。犯罪も、詐欺も、騙すのもダメだ。法律では許される範囲であっても、居心地が悪くなるのはダメだ。

大儲けして、わたしは幸せに暮らす。
関わった人たちも、全員がそれぞれの立場で納得して幸せに暮らす。

そのために、きっとできる事がある。
小さいけれど、小さい事しかできないしね。

がんばる。

(おわり)

ここから先は

0字

¥ 150

つよく生きていきたい。