ネットの居場所と投げ銭の力

第二の低能先生

とある有名ブロガーらしき人が面識のない男に刺殺されたという事件。
面識はないが、認識はしていた。

正直はてな界隈は足を突っ込んでいないので、こちらの文化圏の事はよく知らない。ただ、はてなに飛ばされると本当にボロカスに言われるので、なるべく関わらないように、奴らに知られないようにしたいという気持ちはある。
あるけど、そうやって燃やされた私の書いたモノとかもある。
楽しそうにケチをつけ、小ばかにし、罵倒して「ハイ論破」という謎のご満足という自慰行為のボリュームがすごくて、まったく価値のある情報がない毒素のツボみたいな感じ。

その毒を発している人というのが、今回はっきりと形を持って社会にコネクトした。

(らしい。ちょっと真偽はまだわかってない)

この毒を発している人が、被害者なのか加害者なのかの二元論で話をするのは無理があるんだろうなという事はわかる。

楽しそうにケチをつけるのは、それが本当に楽しかったのだというのがこれらの事件にまつわる「低能先生」や「第二の低能先生」たちの言い分ですごくよく分かった。
彼らはとてもとても他人を馬鹿にして嫌な気持ちにさせる事が楽しくて仕方なかったのだ。その楽しさを奪われる事、奪われた事で、何もかもを捨ててしまうほど、他に何も持っていなかった(と自分でいっている)。

こういう現象を見て、「彼らに寄り添う存在が必要だったのでは」と識者ぶって語る人も、ぶっちゃけ寄り添いたいとは思っていないと思う。

誰が好き好んで毒素のかたまりに寄り添うだろうか。
それこそ殺されかねない。


誰しも毒を持っている。
完全な無垢の人はいないし、いたとしたら社会生活をしていくのはちょっと厳しい。子供だって自分の事しか考えていない邪悪のかたまりだ。見た目がかわいく力がないから愛されているだけだ。
見た目の可愛さや美しさとは、それだけ強い武器なのだと思う。つくづく思う。

でも問題はそこじゃなくて、その毒をどうするか、ということ。
可愛さや見た目の良さでマスキングできる範囲は小さい。

なんとなく、毒という課題はどこに行っても消えないので、持ち回りなのじゃないかと思う。
学校ではいじめる側、家では過酷に扱われる側、みたいに。
これはある意味希望等も持ち回りで、全員が希望にあふれているとそれはそれで問題だが、誰かは希望を持っていなくては社会はうまく回らない。
悲しみや憎しみは消えないが、全員が持つと地獄の様相だ。
希望も憎しみも、社会の中で一定量が常にあり、それをあるべき場所に整えて持ちまわる仕組みがちゃんと動いているような気がする。

でもその「持ち回り」がうまくいかない人がたまには出てくる。
男性の性犯罪被害者の告白で「自分を助けてくれる場所がどこにもなくて、性犯罪にあってもサポートを受けられる女性が憎く、そういう人に嫌がらせをたくさんした」というものを読んだ。

弱者であり、被害者であり、その役割を認められなかった者。

一番重要なのは、憎しみとかどれだけ被害にあったとかではなく、「役割」を感じられるかどうかという事だ。

かわいそうな被害者という立場になるのは、失うものも多いのだけど「そういう役割」がある。サバイバーという名前がつくだけで、状況は何も変わらないけれど、居場所ができるのだ。



ネット上では、前後関係や背景、本人の姿が見えにくいから、ある意味自由に「役割」を勝手にゲットする事ができる。
現実社会では顔や姿、立場、持ち物などに自動的に紐づいて役割が生まれてしまうが、ネット上ではそれがかなり少なくなる。

だから、毒をはいて攻撃する嫌がらせを勝手に「正義」とすることだってできる。彼ら、低能先生たちがどのような人なのかは知らないのだけど、なんらかの「使命」を持って情熱的にそれをやっていたのだろうことは感じられた。

が、そこも毒溜めの壺というわけにもいかない。いや、いかなくなった。毒は排除されることになった。
身勝手ば使命も正義も、通用しない。

そのことが、この低能先生、または第二の低能先生という人たちには、命と引き換えにしてもいいくらいの出来事だったのかもしれない。

「自分はもう社会的には死んでる」と思い定めた人が、もう一度社会に戻る時は完全に死んだ人(社会的に)になるしかないと思い定めていたのは不思議ではないと思う。

社会にコネクトする方法が、最も重い刑罰の対象になる事だったというのが、ひしひしとそれを物語っている。


おそらくだけど、今回の話の流れを見るにつけ、「強烈に排除された」という体験がそれまでの均衡を崩したのだろうなと感じた。

もう社会に戻るしかないと思ったのだろうか。

他の世界がある、という事を、知るには、もう遅すぎたのだろうか。

行く場所も帰る場所もなく、刑務所が本当に心の安らぎとなるのかもしれない。ほら、例の黒子のバスケ脅迫事件を思い出す。

このケースとはちょっと違うとは思うんだけど、この被告人のいう「自分が同性愛者であること、外見が醜いと言われた事、若いうちに結果も出せず、社会で役割も居場所もない事」の着地点が、こういう犯罪という形に帰結したというのと辿っているルートはなんだか類似している。

低能先生の最後の居場所は、殺人という形だったというのだろうか。


私は犯罪心理学などもちらっとやったけど、いわゆるFBI的なスパイ小説みたいなことじゃなくて、少年院での地味な聞き取りがメインの内容だ。
とにかく、彼らは家庭環境がめちゃくちゃだ。
私が若年層の補助を打ち切ってはいけないと思うのは、犯罪抑止の上でそこが一番重要だと思うからだ。
幼い時、若い時に、どういう形であれ誰かに助けられなくてはいけない。
それが公的なものでもいい。なんでもいい。じゃないと、最終的にこういう犯罪になって余計多くの被害を生み出す。
今は心理系サポートの仕事はしていないけど、定期的に募金をしているのはホームレスへのサポートをしてる団体だ。私自身は助ける事ができないから、お金をいくばくか送る。

犯罪のない社会を作ることはムリだと思う。
だけど、絶対に抑えないといけないポイントは、若い人たちのサポートだ。普通は親がやるんだけど、それができないケースが確実にある。

それにうまくいっていても急にダメになることがたくさんある時代になった。


noteは、お金を送れる。
誰かに。

もしかしたら、その100円が誰かを思いとどまらせるのかもしれない。
そうはならないかもしれないけど。

もし、この低能先生という人がもっとちゃんと何か筋を通して紡いだ言葉に誰かが価値を、お金という現実につながる価値を与えていたら、なにかがちがったのかなあ。

稼ごうとして書くアフィリエイトとは全然違う。
全文公開でもお金を投げてくれる人はいる。
お金はコミュニケーションなんだよ。

それが助けになるかどうかはわからないけど、この第二の低能先生と自称する人も、同じような気持ちでいる人も、あるいは黒子のバスケ脅迫事件の被告のような状況にいる人も、何らかの方法で、自力で、居場所を作りだしていかないといけない。
その時の大きな支えになる可能性は、十分あると思う。


自分が変わることを許そう。
黒子事件は自分が「キモいホモ」であると思い、そうであることが許せなかった、認められなかったのかもしれない。彼がそう思ってしまうのは当然なほどの社会だし。
でも似たような顔で同性愛者であっても余裕で幸せに生きている人もたくさんいると思う。
低能先生は、どんな人物か全然わからないけど、「人生オワタ」状態を受け入れそこから楽しく生きてる暴走型の人間が結構たくさんいるという事を知らなかったのかもしれない。自分が正しく思う決着の付け方(それが最悪だとわかっていても)しかなかったのかもしれない。
そういう事はいくらでも想像できるけど、それはしょせん想像の範囲内だ。

愚かで醜い自分のままで大丈夫なのだ。
と、言葉で言っても伝わらないだろう。

だから、1000円くらいの投げ銭をする方がずっといいと思う。

自由であっていいのだ。
自分の思う正しさに従わなくてもいいのだ。

むずかしいことだけども。

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