与えられた予算とサラリーで生きるのが幸せじゃない人生に生まれついてしまったのだから

働いている人には、二種類がある。
サラリーを与えられて生きている人たちと、自分から仕事と収入を得るために走り回る人たちだ。

大金持ちか、貧乏かという線引きはあまり意味がないのだ。

サラリーを得ることで安心して暮らせるタイプの人たちは、エリートサラリーマンから最低時給を割った額で働いているアルバイトまで様々だ。
そして、自分で仕事を取ってきて収入を得ている人も、有名アーティストから駆け出しフリーランスまで様々だ。

ただ、私は「与えられた予算とサラリーで楽しく暮らす」という人生は与えられなかったし、たとえ得られたとしてもそれは最終的には穏やかな監獄となって私自身を苦しめたであろうということに薄々気づき始めている。
ちゃんと正規雇用されたことがない派遣社員だし、正直そこに苦労とかすぐに首を切られる不安はあったけど、それが嫌だと思ったことはなかった。
むしろ正社員になることのほうを嫌悪していたのだ。

なぜ正社員を嫌悪していたのかは、正直よくわからない。
何か理由があったとか、不利益を被ったとかはない気がする(だってそういう状況になったことがないのだからわかるわけもない)。
とにかく、うっすらと私は所属を拒んでいた。

私には、体のどこかに目に見えないタトゥーで「群れたら死ぬ」って入れてあると思う。

チームで働くことが嫌だということはない。
受付嬢時代はチームワークだったので、あれはとても働きやすく楽しい職場だった。それが嫌だと思うことはなかった。
でも、個人のメールアドレスやラインを交換することは非常に稀だった。
毎日会うんだから別にいらないでしょ、というのが理由だったけど、本当はもっと奥にはそれを拒絶する理由があったのかもしれない。

職場も家から近すぎるのは困るし、なんなら行きつけの歯医者や美容院も家から近すぎるのは困る。
知り合いが近所に住んでいるのさえ、困ると感じるのだ。

文字にしてみると、筋金入りの「群れたら死ぬ」人間である。

そんなだから、誰かから金や仕事を与えられるという状態にも、本当はなにひとつ納得していなかった。
本当に、何にも納得していなかったのだ。

こんなだから、おそらく結婚で夫がモラハラタイプの「女は家にいて」とか「仕事はしてもいいけど家事は完ぺきにしつつ俺より稼ぐな」みたいなケースになってしまったら、間違いなく首をくくってしまいそうだと、今なら思う。
私が女の身で法人持ってる、つまり社長であるというだけで実態も確認せずにドン引きする男が本当にたくさんいて、たまに自分が人の姿の化け物なのだろうかと思うこともある。
(そんなつまんない男とどうして真面目に話をしたの、とたしなめられたけど、たいてい初対面の人とは真面目に話をするだろうよ…)

そこらへんはまあ個人の性格というか、「ああ、縛られるのが苦手なタイプなのね」みたいな話かもしれないが、仕事に関しても、お金に関しても、私は「人から与えられた予算とサラリー」に寄りかかって生きるということが、嫌で嫌で仕方がない人間のようだ。

やっと今は何とか自力で稼ぎあげて、年商1500万くらいになって、ちゃんと前年度よりじわっと増やすということをやれたので(今期はどうかわからないけど)、そうなったから言える生存者バイアスみたいなものかもしれないんだけど……
それでも、与えられた予算やサラリーは、私は、たぶん大っっ嫌いなんだと思う。

どうして、そんな立派な仕事ができる人が会社の中でぬくぬくやってるんだろうか。
年収1000万くらいもらえて年末調整も会社がやって厚生年金で、という生き方が良しとされていた時代に生まれて育ったはずなのに、私がそういうのやれって言われたら、足に合わないヒール靴を履いてどんどん弱っていくのが目に見えている。

自分でビジネスを起こしてしまう人、それを継続していける人は、与えられた予算やサラリーには縁もなく、同時にあまりいい印象を持っていない人のほうが多いような肌感覚がある。
そこからはじき出されてしまった経験から、自分がそういう資格がないという劣等感に似た感情を抱えていたり、所属させられるとひどい目にあったり都合よくつかわれるという不満のようなものを持っていたり。
とにかく、所属への信頼が欠如といっていいレベルに少ない。

逆に、与えられた予算とサラリーで幸せに生きていい仕事をしている人たちは、そこに何の不満どころか違和感さえ持ってないように見える。同時に、所属することへの愛着や信頼も持っていて、そこから離れることになっても「古巣」とか言っちゃって懐かしがったり、連絡を取り合ったりしている。
私には考えられない態度である。
私の場合は、仕事が終わったら、一緒に働いていた人の名前も顔も忘れるし、連絡先はハナから交換していない場合がほとんどだから、文字通り断絶する。

所属することに違和感がなく、むしろそれを望み、予算は与えられるもので、サラリーはあって当然、なんならいろんなレシートが経費として精算されるみたいな自分の金ではなく他人の金で仕事をして生きている人たちの感覚は、私にとってはゾッとする。
それがなぜゾッとするのか、よくわからない。
別に彼らは悪いことをしているわけでもないし、人間的に問題があるわけでもなければ幸せでよい人たちであることも多い。
それでも、私はそういう生き方は自分の人生では断固拒否してしまう。
そして、拒否できるまでに持ってこれたこと、つまり自力で商品を考え製造して売って利益を得るということができるようになったことに、非常に……うまく言えないが「やっと本来の姿に戻った」ような感じを持っている。
生活自体はより過酷になったけれど、それ以上に安心というか「この不安なら持っていたい」という愛着のようなものがある。

生き方の癖が強い、と言われた。

私は素直になればなるほど、変り者といわれる。
それがどれほど嫌な気分にさせられるか、ということをずっとかみしめていたけれど、「そんな与えられた予算とサラリーで生きている人にあれこれ言われるのはごめんだね!」と私が啖呵を切ると、与えられたサラリーで生きている人はイラっとする。
お互いを少しずつ下に見て、嫌っているのだろう。
正規雇用されたこともない半端モノが、といわれたり、自腹で仕事をしたことがない人間が偉そうに、と言われたりしているのだ。お互いに。

ちなみに、サラリーを与えられて生きることが嫌で嫌で仕方のない人間というのは、数的にはそこまで多くないらしい。全体の10%もいるだろうか。
でもこれは表に出てはっきりとそう宣言できている人たちの数という感じがする。
もっと声に出せていないけど「サラリーで食わせてもらうのはごめんだ!」と心の中でわめきながらグッとそれを抑えている人たちはもっとたくさんいると思う。

どう生きるかなんて、誰かに決めてもらうことでもないし、ぶっちゃけどうでもいいことだと思っている。
というか、そういうことを言われる時点で、たぶん私は「与えられた人生」たる事実に突き当たってしまうので、見えないタトゥーの群れたら死ぬが騒ぎ出すのだ。

オンリーワンでもナンバーワンでも知ったこっちゃない。
それは他人の決めることだ。
そういう称号が欲しいという時点で、「与えられた」世界に迎合するということだ。

私は、私の肉と血と皮膚で、この世界を生きていたい。
「与えられた予算とサラリー」がある世界は、私のために作られていない。結局は誰かのために働いているのだ。だからこそ予算とサラリーが与えられているのだ。お前の生き方がいいわけじゃない、誰かにとって都合がいいからだ。
私は自分のために働きたいし、そのためになら人を殺そうが、なんなら自分が死のうが構わないと思っている。

別に、フリーランスだとか自分で起業して稼いでいるからって、その金は誰か(客とか、クライアントとか)から渡されるものに変わりはないんだけど。
でも、そこにはその仕事をやる理由が金と直につながっている。
そういう、存在に肉薄した金が欲しいのだ。
黙っていても与えられる金じゃなくて。(有給っていいシステムだよね。私にはない。ボーナスもない。祝日も働いている。一挙手一投足がすべて仕事のために動かされている。それが私の生きるためのやり方だからだ)

与えられた予算とサラリーで生きている人たちの、あまりのぬるま湯っぷりに激怒することも少なくないけれど、彼らには何を言っても通じない。
お金は与えられるものだと思っているからだ。
何か決められた場所で与えられたとおりにステップを踏んで、決められた言い回しをうまく言えればお金になる。就活とはその決められたステップと言い回しをうまく言うための訓練だといつも思う。だから、ほんとにやる気がなかった。

誰かに飼われて、与えられた安心と権利の中で、ぬくぬくと暮らしていけたらどれほどよかっただろうか。
なぜ私はそれを全力でどぶに捨てないと気が済まないのか、自分でもよくわからない。

いや、薄々は気づいている。
そんな与えられた予算やサラリーであっても、そこにいる人たちが相当面白く能力のある人たちであるならよかったのだ。
ただ、そういう場所にアクセスする権利は、与えられなかったし、得ることもできなかった。努力不足と言われればそれまでだが、努力の仕方を知りえなかった環境は、自分のせいだろうか?

与えられる予算とサラリーで生きている人を、憎む必要もなければ卑下する必要もない。
ただ、そういうのを嫌悪する人間に生まれてしまったので、悲しいかな自力で自由な人生を生み出すしかないのだ。

与えられた条件で、ベストと誠意を尽くすしかないのだ。

自分に対しても、社会に対しても、人に対しても。

「与えられた予算とサラリー」の世界では、その与えられる額がその人の価値を決めるような風潮も強くて、まあそうだろうと思うけど、それで埋もれてしまっている人の多さにも外側にいると気が付く。
与えられるものが嫌で嫌で仕方のない人間は、本当にいいものを片っ端から捨てていくクラッシャーに見えて危険人物扱いされがちだしハブられがちだけど、だからと言って孤独に強いわけでもなく、寂しくて悲しくて泣いている夜だってある。
そういう悲しい夜以上に、私は「与えられる」ことが嫌なのだ。
半端なものを与えて自分のいる社会に従わせようという無自覚に他人に操られた状態が死ぬほど嫌なのだ。
黙って実家の太い国家資格保持者の彼氏と結婚したらよかったのに、できなかった。
正社員になる努力をしたらよかったのに、しなかった。
与えられるサラリーで生きる人生が、そんなにも嫌だったのだ。金がないくせに、嫌だったのだ。

今だって、お金は「人から与えられるもの」である。
これは間違いない。
でも、全然形が違っている気がしている。
これは私が受け取るべきお金であり、私がつたないながらもあずかって次に持っていくべきお金なのだと、ほんのわずかだけど自信を持つようになってきた。
金は、もらうというのは実はちょっと違っていて、どこまで行っても所有することはできない。一時預かりなのだ。
あずからせてもらう額が増えていくことが、お金を多く持っているということになる。
私は、私の実感する範囲、自分がつかめる範囲でお金を預かりたい。
勝手に「お前はいろいろ都合よく働けるからもうちょっとやろう」とか「俺の機嫌を損ねたのでもうやらない」とか、誰かに言われて操作されるのはあんまりいい気分じゃないんですよ。

与えられた予算とサラリーで生きている人も友達には多いけど、私はそういう生き方はもうできない。不自由なことだ。そしてとても、自分に素直になれている。幸せなことだ。

ここから先は

0字

¥ 200

つよく生きていきたい。