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残酷なnoteの続け方。

noteがリリースされた当日に登録してそれからずっと書いている。
数年間。
あと少しで3000記事。
すさまじい雷鳴が響き、土砂降りで、窓の外は稲光が満ちている。

売上は、最初は年間5000円とかだったかな。
今は、全然気にしていない。
広告もしていない。
今は月に2000円越えるくらい。ほぼ投げ銭。
はじめて課金してきたのがなんと元カレだったという鉄板ネタまで持っている。(激おこした私はそれで自分の顔をアイコンにしたのだ。課金されたときは何が何だかわからないアイコンだったので。その話をしたときに死ぬほど大笑いする人は大体友達。そうじゃなくて「名前も顔もわからなくても惹かれる存在なんですね!」とか言ってくる人はロマンチックが過ぎて現実があんまり見えてない)

元カレからもらった100円という、極めてむかつく金額が、しかも入金できないので実質ゼロ円というのが、私の怒りに油を注ぐ。加油。
そして最初の頃あんなにnoteがすごいサービスだと入れあげていた元カレはあっという間に消えていった。noteのオリジナルキャラクターを作るとかやってたみたいなのに。

新しく作られたサービスの宿命で、noteも最初の頃よりも無駄に太ったサービスになってきて、あれこれうるさい感じになってしまっている。
美意識は利益によってすぐに壊されるものだ。
子犬も成犬になる前に、なんだかすごくかわいくない時期がある。そういうもんだと思います。

私は、だれも読んでくれないような場所で、ただ一人虚空に向かって言葉を紡ぎあげる場所をいつも探している。
読者がほとんどいないというのがすごく大事なことだ。

そうやっていても、結局私はどこでも文章のファンを得る。
派遣先の会社でも、Facebookでも、ここでも、もちろん自分の仕事でも。
そういう星のもとに生まれたのだと思う。
そしてそれは狙ってやっているものとはちょっと違う。人気がほしくてやっているんじゃない。私は、私の感じたことをいかにその通りに取り出せるかを文章という素材を通してやっているだけなのだ。

たぶん、望まれていることとは全く逆のことを書くけれど、まず文章が書けるということはもう遺伝的な才能がかなりの部分を背負っている。
努力でなんとかなるもんじゃないんだ。
それは絵にも同じことが言える。

それから、それで金を稼ごうみたいな下心はたいてい潰(つい)える。
うっすい下心では才能のなさは補填できない。
人を殺してでもというくらいの強烈な欲望や、恐怖、絶望がなければ、持って生まれた才能を乗り越えられるようなことはそうそうない。
そして、そう思えること自体が才能というものである。

この「誰でも創作が続けられる」という題目は、二つの面があると思う。
才能がない人でも続けられるということと、才能がある人が続けられるということ。
一般消費者がこの言葉を聞くと、前者を想像する。
ところが、本当は、おそらく運営側が望んでいることは後者の才能があるが環境がそれを許さなかった人に向けて「創作が続けられる」といっているのだ。
そのために、作品を発表する場を作って、マネタイズもそこそこ可能にして、青田買いルートもつけてやるぞ、というバックアップシステムを用意していく。

つまり、才能のない人はそもそも最初からお呼びではないのだ。
ないのだけど、「誰でも」といったら本当に才能のない人まで含まれてしまう。そして「続けられない」なんて、悩む必要のないことまで悩む人がでてくる。
そしてサービスとして彼らを救うコンテンツを提供しようという動きが出てくる。なぜなら、それが最終的に金につながるからだ。
金は悩んだり苦しんでいる人から吐き出させるのが楽だから、ありもしない悩みを作るというのはビジネスの常套手段で、ここでは「noteが続けられない」というのがそもそもありもしない悩みなのだ。
noteがなければ、こんなこと悩む必要なかったでしょう?

だから、そもそも、これは与えられた悩みなのだ。

そしてもうひとつ、残念だけど、決定的なことがある。
才能のない人は続けられない。

エラ呼吸の魚は水の中でしか呼吸できない。才能があるひとはエラ呼吸みたいなもんで、なんで水中で平気なのといわれても「そういうものだから」としか言いようがない。

才能があってもうまく発揮できるとは限らない。
でも、才能がある人はその才能のために生きるしかない。
それを発揮しないと、場合によっては死ぬのだ。
才能に取り殺されるみたいなことも起きる。
だから、彼らにとっては続ける・続かないなんてことは判断にも入らない、続いて当たり前。

そうじゃない場合は、つまり、続けたいという欲望はあるがネタがない技術もアイディアも思いつかない=才能のない人は、「どうして続けようと思うのか」がすごく重要だと思う。

たいてい、下心が理由だ。
お金を儲けたいというわかりやすいものならまだいいが、「毎日続けるってかっこいい」とか「継続力があるって偉い」みたいな子供の頃に植え付けられた認識をいまだに引きずって、ただただストレスに変えているだけの人も結構いる。
それだって、下心だ。
自己啓発本に書かれていたからやる、というのも、下心だ。

それが悪いとも言えないし、結果としてあとですごいものに化ける人がいるのは確かだけれど、ほとんどの人はそのうっすらした下心のせいで抱える必要のない「続けられない」というストレスとプレッシャーを抱える羽目になる。生産性という意味では、下の下だ。

続けられるかどうかを最初から考えている時点で、才能がない。
あきらめな。
あきらめた上で、どうしたらいいのかを選ぶ。
下心が「お友達が欲しい」というなら、交流を深めるような内容を書いてコメントで盛り上がればいい。
下心が「金が欲しい」なら、金になるようなコンテンツ作りにいそしめばいい。(私はnoteそのものではなくて、そこに貼ったAmazonアフィリエイトのおかげでコツコツと奨学金を返済している…)
下心が「有名になりたい」なら、なんかこう、有名人に取り入るとか、バズをねらうとか、あるだろう。

発信方法だって、文章・イラスト・写真・漫画・インタビュー・しゃべる・音楽・動画……文章だって短歌や俳句から政治批判、映画レビュー、買い物日記、テーマなんて普通に生きているだけで一日に50くらいは出せる。動画も映画、アニメーション、MV的なもの、YouTuber的なもの、なんだってある。手法は死ぬほどたくさんあるのだ。これで続けられないというのは、つまり手法が問題なんじゃない。

才能は、だれにでもあるが、それが把握しきれていない人のほうが多い。
そして同じように、下心はだれにでもあってしかもちゃんとそれを把握している人は少ない。

才能もなく、欲も把握していない人間がぼんやり何かを続けることはできない。

でもそういう人のほうが実は幸せなんじゃないかってよく思います。
創作はしないけど、好きな作家はいるみたいなひとが、幸せな良きファンになれる。

むしろ、この良きファンという道のほうが、究めるに難しく、また社会においてとても意味のある存在のようにも思う。
私は創作する側にいるとはっきりと自覚しているが、同時に良きファンになるために努力をしなくてはいけないなと常々思う。
本当に良きファンに出会うと、真似できないと打ちひしがれることも多いし、お客さんとして良きファンが現れるとお礼のしようもない。
良きファンはすっと消えて何一つ手間をかけさせず、十分に利益を残し(金銭的なものだけではなく運営そのものによい影響を与えてくれる)、そして継続的である。サスティナブル。
こういう人がたまにいる。ひれ伏す。

創作ができない人は、良きファンになるという道がある(noteなら投げ銭なんて方法もある)。
創作をする人も、自分がファンの側になるということは避けて通れない道であり、究めるに十分な意義がある。
その昔のROM専とか、「情報収集垢」とかじゃなくて、良きファン。
金にものを言わせるヘタなタニマチでもなく、専門家気取りの説教おじさんでもなく、存在そのものが文化の薫り。そんな人が、たまにいる。
そういう人になることのほうが、努力のし甲斐はあるのだ。
ない才能を探してすり減るよりも。

創作は孤独だ。
孤独さに耐えないと作れない部分がたくさんある。
それと同時に、一個人としては良きファンとして生きる道もある。
その両方をすることだ。

創作ができなくても、その世界で思うがままに生きる方法がいくらでもある。そういうことがわかっていないと、「続けられない」とかつまらないことで悩むのだ。

続かないのは当たり前だ。
それは才能がなせる業だから、才能がない人は続かないのが当然だ。A型の血液が突然B型に変わるということは、よほどのことがないとないだろう。そして才能がないことを恨むのは、とても簡単だし、周りにも納得してもらえる理由になるから、とても便利だ。
でも、道はそれだけじゃない。
そんなことで止まるくらいなら、違う道を探せ。
道がないなら開拓しろ。
穴を掘れ。
ロケットを打ち上げろ。
道は、いくらでも作れる。

このくらいの肚でないのに、「続けられない」なんて悩むな。
「続けられない」ことが悪いんじゃない、そんなことで悩むことが悪い。

悩むべきはそこじゃない。
与えられた悩みでくよくよするというのは、都合のいいように操られていることの証左でしかない。

続けるとか、続かないとか、そこで悩むくらいならすっぱり忘れちまえよ。
それでも悩むなら、悩んだままやるしかない。
痛みを抱えながらやるしかない。
簡単なことではない。そういうものだ。
そういうものだと思えば、急に道が開けることもある。

しかし、開けた道に痛みがないわけではない。
本気で生きるということは、常に残酷なことなのだ。

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つよく生きていきたい。