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最初の夜と最後の朝・川と湖と鐘の音の街、チューリッヒ

空港から電車で10分もしないくらいでチューリッヒ中央駅につく。
車窓からは大きな近代的なビルばかりが見えて「ここ、浜松町とか田町とかじゃない?東京なの?」とか言っていたのだけど。

初日はフライト14時間、パニック発作、初めてのヨーロッパ、言葉は通じないという、生きる屍状態だったので、なにもかもがよくわからなかった。
(20代の時初めての海外でニューヨークに行った時はJFケネディ空港で車椅子で運ばれた)

ホテルに荷物を置いて、あまりに長い時間せまい席に座らされていたので、少し歩きたかったので、夜のチューリッヒを散策。

大聖堂
白鳥が浮かんでいる
日本では禁止されている植物のお店

ざっくり大きな教会は有名なところで、大聖堂とフラウミュンスター、聖ペーター教会。

あの時計はなに!となる変な遠近感
シャガールのステンドグラスがあるフラウミュンスター

チューリッヒ滞在は初日の夜と、最終日丸一日という感じで、決して長い時間ではないけれど、街並みの「本物のヨーロッパです」感と共に、鐘の音が印象的だった。

リンデンホフの丘からの眺めを友達に送ったら、「AI画像みたい」と返事がきた。確かに写真にすると余計そんな感じ。

本当にその場で体験することと、バーチャルの情報や知識はなにが違うのか、私もあまりわかっていない。わからないまま、一生いくこともないヨーロッパへ、スイスへ行った。


行って分かったのは、チューリッヒは教会の鐘の音が街に満ち溢れて、また引き潮のように消えていく「音」があること。

その最初の一音で空気が揺れ、街中の鐘がどんどん鳴り、音が街中に満ちる。
そんなことは、ガイドブックにも旅行者ブログにも「地球の歩き方」にも載ってなかった。

音が集まり、どんどん盛り上がり、ピークを過ぎてゆっくりと音が減っていき、最後の和音から単音になり、その余韻が消えるまで。

土曜日の夜は19時から15分間、なにかを祝福するように鳴り響く。
日曜日は9:25に鳴り始めて、中途半端な時間だなと思ったけど9:30にすべての鐘が鳴り止み、日曜日の礼拝の合図だと思い当たった。

あの音、ハーモニー、どうやって「作曲」したのだろう。だれがあの音の鐘を作ったのだろう。
間違いなく音楽だったし、讃美歌やミサ曲と呼ばれる音楽やハーモニーと共通している感覚があった。
私はクリスチャンではなく教会音楽もちょっと聞いたことがある程度(子供の頃、児童合唱をやっていたのでなにかと歌ってはいた)だけど、それでも鐘の音が日常に宗教的な祈りがあることを言葉や意味ではなく知らしめ、音楽によって常に保たれていることを感じた。


あと、リマト川とリマト湖がチューリッヒの特徴なのだけど、水の透明度がすごい。

川底が見える

透明感は、水に栄養が少ないことを意味する場合もある。

スイスは、なにもかもきれいだった。
金と火薬と、大麻と安楽死と美容整形。
無機質なものを否定しない。
有機的なものが豊富だと無機質なものを異物として憎むことがあるけれど、有機的なものが少ないと無機質のものも、ただの素材と認識されて、彼らは金を稼ぐことになんの疑問もなければ、安楽死もニーズがあれば是とするし、顔の形を変えるために切った貼ったもナチュラルに受け入れるのかもしれない。

有機物が少なければ、腐った匂いはしないけれど、豊かに実るものもない。


現場に行く意味とか理由とか、いろいろ考えたり、意味がある・ないで揉めたりする。
何十万円もかけて海外旅行に行くより、生活を立て直す方が大事な時だってある。本を読んで、映画を見て、ヴァーチャル体験をするだけで十分だという意見もある。

が、行ってみてわかったことは、どうやっても空気を通じて肌で感じるような音は、わからないということ。
再現はできるのかもしれない。でも表面的な再現にとどまるだろう。

行ったところで、その音が聞こえない人だっている。
その景色が見えない人もいる。
そういう個人の肉体に準拠した「感受性の差」はあると思う。
再現する側は個人の感受性の差まで考慮していないから、どうしたって平べったく同じテンションでくるので、迫力でごまかすみたいなことはとても多いと思った。

本物は威圧する必要が、そもそもない。
だってそれが最初からあるのだから。

ずーっとバーチャルな情報で満足するのか、というなじりに後ろめたさを感じることはあるのだけど、本物の中に放り込まれると、そういう後ろめたさも何もなくなる。
あれがこれか、というのと、こんなことは事前情報になかったぞ、というのと、両方を活かせる。もう少し前はそういう事もできなかったかもしれないけど、今はできるようになった。

つまり、知っているものでも「未知のもの」「既知のもの」に分けられるようになったのだ。

ヨーロッパは知っているけれど未知のものだった。
別に行きたいとも思わないが、きれいなところなんだという話も聞いた。気持ち悪いどろどろとしたところも、犯罪も社会問題も多いという話も聞いた。
実際に行ってみて、浜松町かなと思う事もあるし、田舎は地形や植生が違うけどなんか同じ感じがしたり、自分の価値観を塗り替えられることよりも、持っている価値観とそのズレと、新しい価値観が全部混在できることに気づいた。

現場に行かないとわからない事はある。
教会の鐘の音のハーモニー。
音が最後に消える空気の揺らぎ。
川底まで見える水の透明度。
夜9時半まで明るい空。
シンプルなサンドイッチが一番おいしい。


それでも、ただ表面的な美しいものだけをなぞっていたことはわかる。
旅行にはそういう「一番いいところを少し離れたところからパッと見る」というスタイルにならざるを得ない。
いいモノを見せてもらえるのだからそれで十分な気もするし、そこはいくらでも演出でごまかせるのだから、本物ではないともいえる。
だから、その場に行っても本当の姿が見えるわけでもない。

何をもってリアルと言い、現実と言い、本物というのかは、その人の理解度とか、そういう内面の力に寄るしかない。
でも「あるもの」は等しくあるがままにある。
教会の鐘の音も、変わる予定はしばらくなさそう。

事前に予習して、現地で「答え合わせ」をするのがいいのか、先入観なしで飛び込んで印象と体験を最大限に引き伸ばすのか、意見は割れるところだ。
でも両方ともやったことがない人間がそんな意見を戦わせても何の意味もない。
という事がよくわかった。

個人的には、準備しすぎることはないと思うし、どれほど準備していっても現場でそれが発揮できるわけではないから、体験はいくらでも引き伸ばされると思う。
基本的に映画もドラマもネタバレしてから見たい派なので何もわからずおろおろするより、最低限のルールとアウトラインは知りたい。

それを知ったところで、鐘の音は聞こえないのだ。

その時に、その場に行って、耳を澄ますまでは聞こえない。


知識だけで知った気になって本物を見ないで一生を終える事は、別に悪い事じゃないと思う。そもそも知らない人生もあるのだから。
知っていても役に立つことはなく、知らない方が穏やかに生きることができるものも多い。知ることの弊害というのはある。

が、弊害に注目してその場に行かない事や、いけないことを正当化したり言い訳するのは、やっぱりちょっと弱い。

そして、その場に行かないと、あの鐘の音は聞こえない。
答えとしては、それで十分だった。
最後の一音が消える余韻は、あの日にあの場にいないと聞けないのだから。
音そのものじゃなくて、音が消えていく時の空気の最後の震えが満ちる街。
音だけなら、いいスピーカーで聞かせてもらえるだろう。

でも音が消えた時の空気の震えは、その場でないと聞こえない。


東京の日常にも、その場でないと聞こえないものがたくさんあるのだろう。
我々はスイスにはない湿気の中、耳をふさいでそこを歩くけれど。

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つよく生きていきたい。