どうして安く買いたいのか?

安く買いたい。当たり前の話だ。
という事を、人は疑わなくなっている。

本当に私たちは安く買いたいのだろうか?

安い方が良い、というのは、大衆の正義のようになっている。
もちろん私自身も安い方が良いと思って消費生活を続けてきた。
自分が商売をするようになっても、いいものを安くという考えはずっと頭の中にあった。

安くていいものを提供する事が正しさ。良心であり善意であり、高い理想とされる。……ように、思い込んでいた。

でも待って?
私たちはなんで安く買いたいのだろうか。

安く買えれば、お金が余る。そして別のものにお金を使える。
だから、安くていいものを買える人は、いい人生。
安くていいものを提供してくれるお店はいいお店。

そうなの、だろうか??

私たちは、このことに関してあまりにひどい思考停止に陥っていないだろうか。

お金を貯めて、節約して、何を目標にするかというと、高価なものを買うためだったりしない??
(家とかマンションとか、海外旅行とか、宝飾品とか、大学に行くとか)

となると、私たちは、高価なものを買いたいというのが本当の目的なんじゃないの?

高価なものを買いたい vs 安く買いたい

大体のケースでは、高価なものを買うのが目的でお金を作ろうとその他の出費を抑える手段を取るのだけれど、その手段が徐々に目的になってしまっている事はよくある。
そして、回し車のハムスターのごとく、無為な努力を重ねて充実感を感じている。

私たちは、安く買って、どうしたいのだろう。

最初からお金がないからとにかく節約、というのもわかるんだけど、商売をやっている人間が画一的に「安くていいもの」という条件を課すのはよくないんじゃないかと思いはじめた。

無意味に高いものを作るというのではない。それに、馬鹿みたいに金を巻き上げるような阿漕な商売をするのも、キツイものがある。

わたしが作っているものは、そんなに高くない。1000円程度のものだ。
ただ1000円の消しゴムは高いかもしれない。1000円の靴は安いかもしれない。1000円だから高い安いではない。

消費者とされる人たちは、過剰におびえている気がする。
自分が損をするのが、死ぬほど怖い。
1円でも安く買いたいと思うし、元を取らないと眠れないほど悔やむ。
そして500円の節約のためにガソリンを燃やして遠くのスーパーに買い出しに出かける事もあって、それで満足して、安物買いを自慢する。
それはそれで悪くはない、いいレジャーなんだけれど、そうしなくてもいい人は、そうじゃない価値観で動かないと社会が全員貧乏になってしまう。

私みたいな小さな商売をやっている人間は、目先のお金、明日の米が何より重要になるけれど、それだけじゃダメなのはほかの大きな商売と同じだと思う。

小さいながら、覚悟を決めて、安売りをやめる必要がある。なぜかというと、それは自分のためではなく、お客さんの自尊心を守るため・お客さんに差し出す価値のためであって、そして一歩引けば社会全体のためでもある。
社会の中で、小さな商売が果たす役割は、小さいけれど大きな意味を持つと思っている。税金を納めるとか、声高に社会貢献を叫ぶこと以外にも、できる事はあると思う。
それは、安売りをしない、という事で果たせる役割もあると思う。

でも、そのためには、「どうして安売りをしないのか?」「それより皆さん本当に安く買いたいと思っているのですか?」という部分を、ちゃんと主張していく事も大切なんじゃないかと思っている。

わたしだって、一消費者だ。
安く買いたい。
でも、それだけじゃ、この社会がダメになることもじわじわ感じながら生活している一消費者なのです。
自分で自分の足元を少しずつ削りながら、おびえながら、西友で安いプライベートブランド商品を買って生活している。

その一面を今すぐ否定することは、簡単じゃない。
すべて高いものを買えばいいという事でもない。
というか、値段でものを選ぶという感覚にすべてを支配されている奴隷のような感覚から、本当の自分を取り戻していかないといけない。

ほんの少しでも、そういう精神の開放のための手助けになるような事がしたい。

人は、たぶん安く買いたいとは思っていない。
自分を満たすものが欲しい、自分の選択が間違っていないと自信を持ちたい、そんなことを思っている。
そこに商品とか、売買という精神的な活動がどう作用するのか。
悪い方に転ぶこともあるけど、いい方に転ぶモノだってあると思うんだ。

満足する買い物体験を提供したい。
それは安い高いじゃなくて。
だからとても難しい事だけど、でも、わたしはお客さんたちをほんとうに大事にしたいと思っているんだ。彼らが結果として傷つくようなら、安売りはダメだ。

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