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無職になってわかったこと

無職になれば、好きなことができると思っていた。

それは間違いだった。

無職になってやったことは、何もしないということだった。

なにかをしたいという気持ちは、それができないから生じるものであったりもする。

なんでもできる状態になったときに、それはもう「どうしてもやりたい」と切望する対象ではなくなってしまったりする。

なにもしない。

朝は、一度7時に起きて、次は9時半頃目が覚める。

ご飯はなにをたべようか、ということばかり考える。

そしていそいそとなにかをこしらえては、食べる。

食べたところでさほどおなかが減ってはいなかったりする。

かといって。

飢えて、キリキリとなにかに追い立てられながら生きる事が、本当に幸せなのだろうか。

そういうときの方が実際にはものすごく強い物を産み出したりしているけれど、そういうやり方しかダメなのだろうか。

世は仕事納めの年末だ。

わたしには納める仕事もない。

個人的なビジネスは延々と24時間シームレスで動いているから、なにか発注があってわたしが眠っていないか、ネットにつながらない状態でなければ、常になにかをしている。

ただ、これで食べていけるほど稼ぐには、後少しの時間が必要になる。

だからずっと年末年始も、特にこれといってなにかがあるわけでもなく、受注を確認し、発注のあれこれをする。

そのほかの時間は、完全にふわふわしている。

なにもしていない、といってもいいのかもしれない。

いやいや、今後の展開を練りに練っている、と答えればいいのかもしれない。

どちらも正解。外から見たら、何もしていない。本人はあれこれ必死に考えている。

無職になったことで、あっという間に人は孤独になる。

人に会わなくなる。

出かけるのも億劫になり、着る服にも頓着しないし、化粧なんかしばらくしない。

で、時々それじゃダメなんじゃないか、という疑問がよぎって、でもその疑問を解決するために働きにでるのも億劫で、なるべくもう少しは働かずに何とか無職を引き延ばせないかと願っている。

けれど、無職になって、する事がなくなったから見えてくることがたくさんある。

どれほど自分が自分に嘘をついていたか。

どれほど自分を隠して生きていて、これからもそうしていこうとしていたか。

どれほど、人に甘えていたのか。

孤独になったからわかることもある。

ちゃんと自分を生きていなかった。

もっと好きなだけ好きなことをしていても、本当は良かったのかもしれない。こんなに自分にふたをして、爆発するまで蓋をして、息を殺して隠れて生きていなくたって、良かったのかもしれない。

そうやって隠れて、隠れている事をがんばっているのを盾に誰かに甘えて、自分の人生を捨てたことを盾になにかを恨む権利を得たと思って、それを常識的な振る舞いできれいに押し隠して、きれいに隠せているからこそ、その権利を行使しようとして。

それを甘えの一言で片づけるには、あまりにも重いし、えぐい。

同時に人にとってはどうでもいいことで、「他人の役に立たないことには意味がない」という価値観では、それは存在しないことになってしまう。

自分の人生を生きていない。

じゃあ、誰の人生を生きているの?

「こうあるべき」という割り振りが自分の中にあって、それに従って生きている。

わたしは、自分をずっと隠して生きていかないとダメだと思っていた。

隠れて、自分自身は絶対に表に出さず、取り繕ったきれいな顔で優等生を演じなくてはダメだと思っていた。今も少なからず思っている。

ああ、昨日も今日も、手足が氷のように冷たいな。

子供の時からそうだ。

冷たくて、誰もわたしを抱きしめてはくれなくて、そのうちわたし自身は誰かとふれあう時に常に心が冷えるようになってしまった。

楽しくふざける、なんてできない。そういうふうに「振る舞う」事はできるけど。

誰のためでもなく、ただ自分のためにしか流れない時間。

家族のいない独身女が無職になるというのは、そういうことだ。

それが「耐えられない」人もいるだろう。

だって、どうにも取り繕えないのだから。

自分のために生きるのは、あまりに居たたまれない。

だって自分はそのままそこにいてはいけないから。

それでも無職の時間は流れる。

そこにいてはいけない自分自身のまま、自分自身として生活していく。

一ヶ月、二ヶ月。

少しずつ減っていくお金におびえるのかと思いきや、少しずつ自分のためだけにそのお金を使い始める。数百円、数千円、小さな金額を、少しずつ。

それが、なぜか、ほんとうに、自分を少しずつ取り戻させるような感覚になり始めた。

単なる幻想かもしれない。なにかが(主に金銭感覚)がマヒし始める先触れなのかもしれない、と、自分に警告を出す。

それでも、時間はただただ緩やかに自分のためだけに流れて消えていく。

その時間を観念して受け入れる、ということは、なかなかに難しい。

社会の一端として、働きにでて、ストレスに苦しんでいないといけない、というような感覚がどこかにある。

そういう苦しみを税金のように払うことが義務であり、それがなければ社会で生きていく権利がないと思っている自分がいる。

その精神的な税金を払うことができなくなり、同時に権利も失ったような感覚におそわれる。アホらしいのだけれど、そう感じる。

人生はギブアンドテイク。社会は資本主義。人間関係も男女関係も、家族の関係も、なにもかも少々複雑なギブアンドテイク。

その感覚からどうしても抜け出せない。

だから苦しい。

そんなことに苦しまなくても、ぜんぜんのんびり過ごせるというのに。

じゃあ、どんどん加齢による容姿の衰えという税金を払おうか!などという方向へ気持ちは向かっていき、とにかくわたしは「精神的な税金」をどこかに払いたくて仕方がない。

「精神的な税金=わたしは苦労している・身を削ってがんばっている」がないと、わたしには存在する権利がない。

それなのに、そんな税金を納めなくても全然毎日はなんの困難もなく過ぎていく。

そして、無職も二ヶ月になろうとするクリスマスに、思った。

「もう甘えるのはやめよう」

「自分の人生を生きないという選択をすることで、なにかをバーターとしてもらおうという考えはダメだ」

「自分の人生を生きても、多分もう誰も文句いわない」

「結婚しなくてもいい、子供を産まなくてもいい、お金を稼がなくてもいいし、正社員でなくてもいい、年金も全部払えなくてもいい。それが誰かのためにやろうとしていることなら、やらなくていい」

精神的な税金を払うのをやめるということは、精神の独立の第一歩だ。

わたしは、わたし王国の王になるのだ。

国民、わたし一人。

メリークリスマス、独立国家。


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このはなしの後日談というか、つづき
「愛(のない)はなし」

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つよく生きていきたい。