因果を解く

ものの見方には、因果という考え方がある。
原因があって、結果があるとする考え方だ。

それがすべてだと思っている人が多い。

でも本当にそうだろうか。

百歩譲って、因果律があるとしても、その原因がその結果につながったと言い切れるだろうか。

因果があると考えると、人は大変納得するし、物事に秩序が生まれる。
これも実際は間違いで、秩序があると錯覚されることによって落ち着くというだけのことだ。

秩序なんてものは、本当は見いだせない。
この世界はいまだに混沌のままだ。
だけど、それでは多くのものが苦しむので、なるべくそう見えないように「見方を変える」というやり方で、人類は頑張ってきた。

いまだに「見方を変える」手法はありがたがられていて、パラダイムシフトだとか、ブレイクスルーだとか言われているけれど。

実際のところ、この世界はいまだに混沌なのだとおもう。
ケイオス!
だから、何が吉と出で何が凶になるかは、本当はわからない。
そこに因果を見つける事は非常に困難だ。

商売をやっていると、常にその「何が吉となり何が凶となるか、全く不明」という状況に長い事放り込まれる。
この世界はいまだに混沌なのだと思い知る。

外の世界というか今までの世界観は、
・イケメンならモテる
・モテると幸せ
・イケメンじゃないしモテないし不幸せだ
みたいな、因果律でできていた。

どの因果律を適用するかは人それぞれ、そのコミュニティ次第だ。日本ならこうだけど、エジプトではこうだとか。頭がいい人はズルいのか、立派なのかは、その人がどの因果律を適用して世界を見ているか次第で、全部変わってくる。

見方で変わるって事は、つまり、やっぱりすべては因果に縛られず、混沌なのだと言える。

いいことをしたらいいことが起きる、というのも因果律を適用した考え方だ。
社会全体の利益を守るためにかなりの部分で「社会的常識」みたいなものが自動で動いていて、「都合のいい女になるなんてもってのほかだけど、面倒くさい女になるものイヤ」とかいうぼんやりした一般的な思想とかも含めて、ルールに従えばうまくいくと思われている。
そのルールがどういう成り立ちなのかさっぱり理解しないまま、なんとかやりこなして、なんとか自分の因果律を見つけようとしたり、結局疲弊して死んだりする。

この世界はすべてが幻想だという人もいるし、そういう世界観の宗教はとても多い。禅や、修験道のようなものや、現代のスピリチュアル思想にも同じことが言われている。

多分、因果律って誰かや自分が都合よく決めただけのもので、実際はさほど重要じゃないんじゃね?ってどこかで誰かは気づいちゃってて、それを言っちゃうといろいろ厄介になることもあるから、ポジショントークで「親は大事にしないと」とか「人のつながりって大切」とかいう訳です。
一方で「親殺しても自由になりたい」とか「ムカつくやつは殺してもオッケー、でも自分が罰せられないようにうまくな」という人もいる。刑務官とか裁判官とかになればそれは社会的信用とともに実行できるワケで、全然不可能なんかじゃない。もっと露骨にやる人もいるし。

ただ、一番問題なのは、ルールを守れば(=因果をなぞれば)欲しい結果が手に入るという考えしか持っていない人だ。

因果律を変えるなんて事は考えもしない、因果を解くことも想像つかない。

現状を変えよう、未来を変えるために貯金しようとか勉強しようとか、そんな事しか考えない。それは、間違っていないけど、正しくもない。

混沌の世界は、ものすごいストレスフルだ。
何がどう出るかわからない、秩序の中なら「これがこう来たらこう」という筋道があるので考える事を放棄しても、感じる事をやめてもいいのだ。
でも、本当の世界は一瞬たりとも感じる事・考える事を放棄したら状況は常に変わり続けて、最初の状態とはまったく異なった形になっていることだってよくあることだ。だって、ほら、ずっと風は吹いているだろう?これだけで大気の形は変わり、木の葉はむしり取られて、飛んでいった葉っぱが道に落ちるとそこを通る人に何らかの影響を与えている。これらはすべて変化で、それを全部把握しようとするとものすごいストレスになる。
そのストレスに耐えられないから、因果律という考え方で、我々は省エネしている。それが少々自分を苦しく縛ったとしても、混沌の世界で毎日消耗するよりマシだとされている。

(一部、自閉症などを診断されているケースでは、この脳のノイズキャンセリング機能がうまく働かなくて、すべての情報がいっぺんに頭の中に入ってきてパニックを起こすという事が報告されている)

でも、ひとつだけは覚えておきたい。

この世界は因果律なんか存在しないんだ。
すべては切り離され、それぞれに無関係で、すべては無意味だ。
無意味のかたまりがぶつかって、意味のあるものに見えるような瞬間がたまにあるだけだ。

因果律のない世界は、ものすごいストレスフルだ。
因果律の整った世界は、それが不自由な因果律だったとしても大変楽なのだ。歳を取ったら人間には価値がなくなるとか。女性は若くないと男性から大切にされないとか。お金持ちになることが幸せだとか、いやまったくその逆だとか。考えや意見の違いでぶつかる事はあっても、それぞれはそれぞれの因果律にしたがっていれば、特に考えなくてもいい。

嫌な因果律が来ても、さめざめ泣いていればいいのだ。そして「ああなんて私は不幸なんだろう」と納得する。「仕方がない、才能もないしお金もないし家柄がある訳じゃないのだから。高望みしてはいけない、これがあるべき姿なのだから。幸せな人たちを妬むのが恵まれない私に許された正当な感情であって、それは認められるべきで、この妬みを思い知らせるというのが望んだ生き方なのだから」と納得する。そこまで分析して言語化してない事は多いけど。

しかし、こんな因果律という実体のないもので苦しんで死んだりするのって、おかしくない?

どうせ因果律を壊してもストレスフルな状況なら、今の苦しい因果律をほどいて、因果をといてもさほど何もかわりゃしないんじゃないの?

商売をやっていてよかったのは、毎日、毎月が混沌な中を生き続ける事になるという事だ。
自分で因果律的なものを適用して、そこにお客を自ら巻き込んでいかないと、商売はできない。因果律を再設定するのが商売とさえいえる。

だから、常に混沌をすぐそばに感じる。
そして、因果律のあやふやさも、同様に感じる。

因果律を捨てたからといって、なにか行動が変わるわけではない。
いい事をしたと思っていたのに、相手から殴られた。おかしい。
どうでもいいと思っていたことが、やたら感謝された挙句に大金をもらった。おかしい。
なにもかもがつながらない。おかしい。
ただおかしいだけ。

でも、自分を縛りつけていた因果律がほどけていく。

ストレスフルな混沌と同時に、因果が消える。

「じゃあ、わたしは億万長者になるわ」とケイオス(混沌=カオス)に向かっていったら、自分が作り出せる因果律の中で億万長者になれるのだろう。
ただし、その人が知っている範囲内にとどまる可能性は、けっこう高いような気もするけど。そうじゃない事も当然あるだろうけど。

他者から与えられた因果律をほどくのだ。他者の因果律に従う必要はあまりない。(自分がそれに従う事を選んだのなら別だけど)
そして、自分にフィットする因果律を適用するのだよ。
混沌の中でそのまま生きていくのは相当ツラいので、因果律をほどける人だって手ごろな因果律をいくつか持っている。

因果律をほどくには、ちょっと逆説的なんだけど、考えるのをやめるのが一番早いような気がする。そして感じ取る。自分が、他人の因果律にしたがって、なんらかの結果をほしがっていないだろうか?「愛されるわたし」という幻想を手に入れて満足するために、さほど好きでもない男の機嫌を取ってびくびくしていないか?いい子であることが家庭を守ると思って、必死でやりたいことを忘れようとしていないか?
多くの場合、それらはとても純粋な願いが根っこにある。
誰かから搾取してやろうと思っている事は、比較的少ない。でも「子供はこうあるべき、夫はこうあるべき」と他者を縛り付けて苦しめている事になっているパターンもあって、自分が被害者だと思っていたのに実際には周りから糾弾されるようなことも起きている。が、本人は他人の因果律にしたがって来ただけなので、褒められこそすれ糾弾される理由はないと本気で思っている。だから厄介なんだよね。

因果律をといて、新しい世界に行こう!っていうことじゃない。
目覚めた人になろう!っていうのは、よろしくない。
だって死ぬまでこの世界で生きていくんだもん。
達観したとか、解脱したとかいう話はもう、八割嘘で、本当だとしても超絶つまんない人間になっている。お立場のある方々のあたりさわりのないお言葉って、まあつまんないよね。

この世の苦しみの50%は、この他人の因果律の中で結果を得ようとしていることに原因があるんじゃないかと思っている。
もう半分は、「なにがどうしてこうなった!」みたいなこと。地震とかさ。電車が遅れたとかね。半分はどうにもならん。せめて気休め程度の準備をしておく程度しか方法がない。
他人の因果律にしたがって結果をもらおうというのも、効率がすごく悪い。だってどういうルールなのか厳密には不明。「俺がムカついたらそれはなし」というローカルルールが書類化したら8㎝厚のファイルで別紙として出てくるレベル。だから、そこの因果律で生きてはいけない。

他者の因果律で生きるのをやめる事。

結局、因果律を適用しないと人間はまともな生活ができない。だから、必ず因果律を適用するのだけど、まずは一度因果をといて、他者の因果律でものを見るのをやめて、自分の因果律を探し(半分くらいは他者の因果律、親とか社会とかのものでできているけれど)、自分にとってベストな形に因果律を調整しなおすのだよ。

そうして、混沌の世界の中で、どれもこれも意味はない偶然のかたまりの中で、まあまあやり過ごすのです。

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つよく生きていきたい。