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倉俣史朗のデザイン展

まったく、興味なかったし、知らなかった。
いく気もゼロでしたが、なぜか立場の違うアート関連の有識者がふたりも、こっちが「なんかおすすめあります?」と聞いたわけでもないのに勝手「これいいですよ」と送りつけてきたので、そこまでされるならいかないといけない気がして行ってきた。

というか、倉俣史朗って?誰?

代表的な作品

椅子。

なんかね、よくわからないんだけど、インテリアとか?店舗デザインとか?家具とか什器とかをデザインしてた人らしい。

ふーん、って感じ。

なんか有名で、当時の売れっ子デザイナーだったんでしょうね、背広の内ポケットに100万円の束とか入れてたイケイケだったのかな?みたいな穿うがったことしか思い浮かばない。

そんなレベルの事前知識で、ある種イヤイヤ見に行った。
(イヤイヤの理由は、駅から本数の少ないバスを使わないと行きにくい場所なこと。パニック発作が起きやすいのが路線バスなので)

机。あと椅子

イヤイヤ見に行っても、なにも得られるものはないのではないかなと思ったのだけど。

意外にもそんなことはなかった。
やはり有識者のいうことは検討するに値する。

わかりやすい、というか、有名な家具……というか家具をモチーフとしたオブジェが並んでいた。
(片方の有識者は「椅子の形をした彫刻」とか言い出し、わかるけどわからんなと思いながら聞いていた)
(もう片方の有識者は「あの花の椅子ひとつで、5~6千万円する」と価格帯を教えてくれた)

置いてあるのは、人体工学をガン無視した椅子たち。
最近もてはやされるゲーミングチェアなどとは真逆とも言える方向性。

あるいはぎこちない机や、無駄に引き出しの多いチェスト。

しかし、見ているとなんとなく思い出す。
遠く懐かしいが、リアルな記憶が蘇ってきた。

あれは、昭和における市井のハイカルチャーではなかっただろうか。
アカデミーな芸術ではなく、あくまで市井の、デパートとか当時イケてたブティックとか…紙質がバリバリによい雑誌とか……そういう、一般市民による一般市民のためのハイカルチャー。その最前線。

メインビジュアルになっていた花の椅子(ミス・ブランチ)は、座りにくそうだし冷たそうだし、座ったらお尻はぺったんこになって、冷えのせいで体調悪くなるだろうなって思った。
でも、あきらかにロマンチックだった。
そして、これらの作品たちの存在が、昭和のロマンチックであり、その後に昭和ファンシーたちが続いたのではなかろうかと見て取れた。

昭和かわいい(カワユイ)文化。
昭和ファンシー文化。
それらの、オリジンがここにあるのではないか。

とにかく、デジタルやインターネットがある時代には、生まれない、存在し得ないということが、はっきりとわかる。

「椅子という形の彫刻」とのたまったかなりお若い有識者は、「僕は素朴さのある作家が好きで」と倉俣作品を評していたけれど、確かに昭和中期を知らない世代にはただの素朴と受け止めるのかもしれない。
でも、私はこの空気感を幼児の頃から吸っていたので、素朴とは思えなかった。
あれは、ハイカルチャーだ。
都会の最先端の、ジャパンイズナンバーワン時代の気配を伴った、バキバキのハイカルチャー。(そこに素朴さがないとは言わないが)

倉俣氏はそれを作り出した、担い手のひとりだったのだろう。
私が何も知らない田舎の子供だった頃の話だ。

私たちの見てきたもの、憧れたもの、それゆえに幻滅したもの、劣化コピーだらけでダサくなったもの、そういうものたちはばらばらに存在していたわけではなく、どこかにオリジンがある場合がある。
そんなことを、目の当たりにしたし。

我々はそこそこの年月を生きてきた、だからこそ捨てたりダサく感じたりしてきた、忘れ去られしハイカルチャー。
時代の新陳代謝で失われていった空気感。

それを今更見直すと、個人の感じるロマンチシズムがその種となり芽を吹き、時代を作り、その下流にいるひとりが、私なのだ。

ぜーんぜん好みではないけど!
でも、リスペクトはある。嫌いでもない。
これらがあったから、かわいいファンシー文化があり、それを経て私の、私たちの感性や、私たちが熱狂するクリエイターたちが生まれたのだから。
なんか、実家みたいな感じ。
ダサくて古臭くて、でもおいそれと粗末に扱えないし、優しい記憶も恋焦がれた情熱も残っている。ただ過去になっていっただけで。


座ってもいい椅子が一脚だけあったので、座ってみた。
冷たくて硬くて平らで、別にもういいかなってなった。
全然、いいとは思えなかった。椅子としては割と最悪。

それでも、そこにはなにか独特の、畏敬の念のようなものがある。
知らないけど有名なOBみたいな。
我らがカルチャーの、偉大なる先輩。
知らないけど。
知らないけど、彼の作品のその先で、我々は生きている。


家具としては、割と最悪だと思う。
でもアートとしては、軽やかでロマンチックで身近さがあって、先鋭的で、なのに浮ついていないし、ややこしい思想も素直な表現になっている感じがする。

若手の有識者が「家具の引力からの解放とそれを示すマテリアルが云々」と言っていたけど、いってることはわかります。あれは家具の形をしているけど家具じゃないってことですよね、わかります。
わかるけど、椅子じゃん。椅子には座るじゃん。座ったら腰が冷える。生理痛がひどくなるじゃない、共に暮らすことはできない。
あなたは家具の形をしているけれど、家具ではない。
だから家族にはなれないのよ。私とは暮らせない。
それは、悲しい事のように私には思うの。

と、語り掛けてしまうほどの存在感という意味で、もう、私はそれに巻き取られている。

つよく生きていきたい。