【若冲が来てくれました展】福島へ若冲を見にいく
2013.9.6に書いたものに追記。
伊藤若冲を観に、福島県立美術館へ。
絵を見に行くと、時々それを描いた人の姿がふいっと見える(というか感じる)ことがあって、それが気味が悪いけどなんとなく好きで(異界の扉を開けるような感じ?)美術館にいくんだけど。
若冲の虎のまっふまふした感じや、動物たちの顔つき、大胆に省略したようなのに細密な脚やくちばしの鶴。
美しい鶏は、己の美しさを知らず土を蹴る。
きれいという言葉がないありのまま。
若冲さんが紙に描き写した動物も、彼自身も、すべては死んでしまったけど、わたしらはそれを見て感動したりする。
数々のアーティストがインスピレーションを受け、モチーフにしている【鳥獣花木図屏風】がじかで見ることができるということで、福島へ飛んでいきましたよ。
朝早く家を出て、小さなローカル線を乗りついで、福島県立美術館へ。
無人駅には慣れている(最寄り駅がそんな感じだった場所で育ったので)のだけど、美術館の建物の豪華さには驚いた。
地方都市の金をゴツンと注ぎ込んだハコ。
【鳥獣花木図屏風】は、思ったよりもずっとコンパクトだった。
色合いも、CGで無理な加工を施した画像のイメージが強いせいか(宇多田ヒカルのPVなんかが有名)、あれっ?て感じだった。
だけど、うごめいていた。
写実的な数々の動物や、架空の空想動物が同じように息づいている。
特にいいなと思ったのは、ヒクイドリ。
調べたら、絶滅が危惧されているという。ああ、見にいきたい。
若冲の絵は、とにかく写実的だといわれている。
でもわたしはひとつだけ、象の絵が納得いかなかった。あんな細い目をしていただろうか?と思っていたのだけど、ある日TVで絶滅しそうな中国の象の非常に貴重な映像が流れていて、それがまさに若冲の描いた象と同じ細く吊り上がった目をしていたのだ。
若冲さんは、ちゃんと見ていたのだ。
250年くらい前の象を。
福島について。
遠くから何かを言う事に価値はあるのか。近くでなら意味があるのか。言わない事で守るもの、言う事で守るもの、わからないままという不安感。
ゆるやかな絶望。
おだやかな恐怖。
幸せな静けさ。
駅前は、よくある地方都市という感じで、田舎に対して大変な憎しみを感じるわたしは、ただチクチクと胸が痛んでいた。
福島の爆発した原発には、行ったことがある。
そのことは、単純には書けないので、また今度書こう。
あの水色の建物がまだ四角かったころだ。
若冲さんが描いたうごめく生き物たちが、ここにはいる。
ここだけじゃない、あっちにもこっちにも、どこにでも、いる。
人間だけじゃなくて、鳥も、動物も、見るもおぞましいような虫も、魚も。
うまく言えない。あの大事故の事を。
ただ、もう汚れずに生きていこうとするのも、ただのエゴなんじゃないかと思う事も多い。そう思うことが正しいのか間違っているのか、わからない。
うごめいて、死ぬ。
そのうごめくさまは、あまりにきれいで、あまりに美しくて、若冲さんは絵に描いて、それを何年ものちの世の我々も、美しいなあと思ってしまう。
緑燃える福島の美術館は、とても美しい場所にあった。
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つよく生きていきたい。