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人生で最もチェリーピンクな日

せっかくアートバーゼルに行くのだから、人工的な色にしようと思う。
そういうと、なぜかみんなが納得した。
つまりアートと言われるものは、何かしら人為的・人工的なものだと受け止められているのだろう。

前回、盛大に黒を抜いてもらい、何回カラーをしても色が出ない髪をあきらかにオレンジ色にしてもらった。
色の入れ方をちゃんとデザインして、立体感や奥行きを作ってもらった。

ブリーチ強めヘアと仲良くやるために、しばらく自分でも試行錯誤が続いたけれど、だんだん塩梅がわかってきた。
明るい色味が変わっていくのも、楽しかった。
そして、黒い部分が増えると、ちょっとイラッとしたりと、今までにない感覚も味わったりした。自分の髪を、高価なブランドアパレルのように丁寧に扱った。
ストレートアイロンも、当てすぎてはいけないが適切に火を入れなくてはいけない。高級ステーキ屋の鉄板の前のような緊張感。あるいはチョコレートのテンパリング。

そんな手間をかける日もあるし、そんなことやってられない日もあるし、日常に手をかけた髪の毛が馴染んできて、自分が黒髪だったことをすっかり忘れてしまった。

現金なものである。

ドリス・ヴァン・ノッテンの10万円のスカートを買った時に、絵を1枚買ったような気がしたというところから、思い付きで「自分が買えるアートはあるのだろうか」という視点で「どこかいいアートフェアはありますか?または手頃な画廊とか」と言ったら、「世界最高水準を見た方がいいでしょう」とのせられて、バーゼルのアートバーゼルに行くことになった。

何もかもが適当である。

私、手頃な画廊って言わなかったっけ?なんでパスポート持って、飛行機に乗って、物価がカンスト状態のスイスに行くのだろう。
しかも円安がヤバい。国、なんとかしろ。我が国、なんとかしろ!
蓋をあけたらそんな感じで、もう閉じることもできない。

よくわからないが、そちらの方に舵を切ってしまったのだ。

わからないから、もう直感でいくしかない。
「なるべく人工的な色の髪の毛にする」
これも直感でしかない。理由はいくらでもつけられるけれど。

最初にオレンジにしたからオレンジでいこうかなと思ったけど、もっと人工的な色のほうがいいと思って、ピンクにしようと思った。
韓国アイドルでたまに見る白っぽいピンクもいいけど、途中で色が抜けていく事も考えると濃い濃いピンクのほうがよいだろうということで、そうすることにした。

さらにブリーチで黒い部分を減らし、こってりとピンクの中でも最もピンクらしいピンクを入れてもらう。
マゼンダピンク、あるいはチェリーピンク。
アメリカのガムも真っ青なピンク。
「全部その色にしちゃうとちょっとおかしくなるから、根本は黒を残して上部はオレンジにして、ピンクにグラデーションに変わっていくようにした」
という、見事な仕上がりです。
実際の染料の英語名はエッグプラント(茄子)。
でも私の髪の毛はチェリーピンク。

人生で最もチェリーピンクな日となった。


普通に街を歩くと、都会なのでそのくらいの髪の色は珍しくないのだけど、染めたての色の鮮やかさもあってか、遠くからこっちを見ている視線はたくさんあった。
バス停で待っている子供は、振り返ってまで私の方を見ていた。
大人になったらやるといいよ。そういうチャンスがあれば、人生に一回でいい、最もチェリーピンクな日があっていい。

そして、自分がチェリーピンクな髪の毛で街を歩いていても、それが普通の人生だったのだと、やっとわかった。
20代の頃結婚しようと思った相手の家のおばあさま(結構な規模の企業を持っているほどほどな資産家の家だった)に「まあ、あなた髪の毛を黒いままにしていて偉いわね」と言われたりもした。だが、その結婚がある人生は私には無理があったのだ。
黒い髪で彼氏の資産家の実家ウケを狙うような人生ではなかったという答え合わせが、20年の歳月を経て行われたというわけです。その間、たとえどんな髪の色であったとしても生き延びたというのが最大の答えだけれど。
実の親には髪を染めたら殺すとか庭に埋めるとか、言われた事もあったような気がするね!もう忘れちゃったけど。(母に髪の毛をザクザクに切り刻まれていた子供時代だったことは忘れられませんが)

でも、生まれ持ったかたちを、例えていうなら魂のかたちに沿って作り変える時、必ず他人の力を借りなくてはいけないということを、早く知ればよかったなと思う。
服だって、誰かが考えて作ってくれている。靴も、バッグも。
髪も。
化粧品だって作ってくれる人がいるからあるわけで。
ヘアゴムも、石鹸も、シャンプーも。すべてが、他人の力だ。
どれだけ反抗しても、自分らしい生き方をする素材を社会から与えてもらわないと、人間は自分らしく生きることはとてもむずかしくなる。

オシャレも、自己主張も自己表現も、すべて他人があり、社会があるからできること。
逆に言えば、本当にひとりきりで反抗していると、自分らしく生きることはできない。一瞬矛盾を感じるけど、少し落ち着いて考えれば、その通りだと思う。
反抗することは、最後には大回りで社会に迎合することだ。または社会という枠組みを広げることだ。

社会から逃げ出す事をしても、ほとんどの人は社会の中で死ぬ。大自然の中で消滅するタイプの死に方はとても少なくなった。(なくなったわけではない)
社会にモノ申したいから反抗するわけだから、最も社会に対して強い意識を持っている、または強い影響を受けているという事になる。

反抗するほど、それは社会性の強い行動になる。

しかし、今回のチェリーピンクは、反抗ではない。
人工的であることをアピールする、人の手が入っていることを表明する事だ。むしろ、積極的な迎合。

令和において、派手髪は社会の多様性への貢献でもあるので、社会貢献のひとつだと思ってる。


世界一チェリーピンクな髪はほかのだれかかもしれないと思う。
でも、わが人生で最もチェリーピンクな日。

noteのアイコンが自分の顔なのは、最初に課金してきたのがこのアカウントが私だと知らない元カレだったので、激おこして「二度と!くるな!!」という意味を言外に伝えるためにこのアイコンにしていたのだけど、チェリーピンクに差し替える方がいいのかもしれない。

しかしチェリーピンクも、数日でこの鮮やかさは消えていく。
(それを見越しての濃いめのピンクなのだけれど)
だから常に、見た目は変わる。
別に似合っていなくてもいい。似合っていなくてもいいと思うなら、似合わないことを気に病むこともない。
そこをどう軸を取るかは、自分で決めればいいし、そのくらいの自由はあるし、それが成功したか失敗したかは結局他人が決めることで、自分で決めることはできないのだ。
その歯がゆさはあれど、別に他人に決めてもらわなくても生きていける余白や自由がこの社会にはちゃんとあると気が付くと、もう少し楽しい事が増えるのではないかと思う。

その日を、最もチェリーピンクな日と呼びたい気分でいる。
一週間後には、ホッピングシャワー味の日と呼んでいるかもしれない。



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