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カルティエ展。ダイヤモンドのなめろう、あるい木の棺、そしてエメラルドで殴る

カルティエ展に行った。
宝石、ジュエリーを少しずつ扱うようになった身としてはいかねばなるまいと、ゆるふわ宝石商&移動宝飾品店はカルティエさまを見に行った。

まずですね、ミステリークロックですね。
カルティエ・イコール・ミステリークロック。
ねじ止めブレスレットが本筋じゃないんです。
「カルティエが誤解を解こうと本気を出した品揃えでしょう」とジュエリーの人が言っていた。そしたらやっぱりミステリークロックです。

時計の針が、透明な空間に浮かんでいて何もつながっていないのに時を刻むという謎仕掛けの時計。なのでミステリークロックと呼ばれる。
基本的に大体宝石でできている。
小さな置時計。が、全部、宝石でできている。

見れば見るほど「はーーー、やべえなこれ」って感じです。
話に聞いたことはあったけど初めてみたミステリークロック。

ある意味、これが宝石でできている合理的な理由なんて、ひとつもない。
だってガラスだろうがプラスチックだろうが、紙だって、合金だって何ら困ることはない。必要にして十分な素材だ。
これを希少な宝石類で作る、そう、宝石を飾るを通り越して宝石で作っている。
アメシストの文字盤の薄紫にダイヤモンドをみっちりと乗せた針がけぶるように動く。ホワイトゴールド、瑪瑙、とにかく希少な素材をどれもいい塩梅で組み立てる。
ちょっとあしらう、じゃなくて、パーツとして組み立てる。
カレーに添えた福神漬けじゃなくて、福神漬けでカレーを作りました、しかも気絶するほどおいしくてミシュランの星を5秒で取りました、みたいなことをしているのだ。宝石などに縁のない生活をしている人間の目から見たら。

まあとにかくやべえ。
カルティエ展は全体的に一言でいうなら、やべえ。

日本で暮らす私などが歩んできた宝石やジュエリーの価値観と、カルティエの持っている宝石やジュエリーの価値観は、基本的に、根本的に違う。
価値観の分子構造から違っているのだ。
種が違うというよりも、もはや物質として違う。
同じ人間とかじゃなくて、「何言ってるんですが、お互い同じ有機物じゃないですかーHAHAHAHA!」くらい違うと思う。

その価値観の分子構造の違いがその後もゴリゴリ出てくる。

なにせ、ダイヤモンドはおにぎりにできそうなほど大量にある。
炊き出しできそう。

これはダイヤモンドで作ったコブラ。ブレスレット。個人蔵だけど、2007年のもので、たぶん言えば作ってくれるんじゃないかと思う。お写真OKゾーンにあったものは、たぶん、同じものが作れるとか、販売OKみたいなものじゃないかと思う。

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こんなにダイヤつけてさあ。
おにぎり、っていうか、もうなめろう?
刺身を叩いて細かくしたやつ。あれくらい無造作にダイヤモンドあったよ。ダイヤモンドのなめろうだよ。
硬くて食べられないよ。
しかも、ダイヤの一個のサイズと品質の良さ。ああ、そうさ、いいに決まっている、カルティエだもの。

写真を撮ったけど、CGみたいだよ。本当にそこに存在するように、どうしてもならない。

今回の展示は、展示方法も相当凝っているというのがご自慢ポイントで、日本の屋久杉や縄文杉を使い、トルソーは仏師に彫ってもらったという。

ミステリークロックは、西陣織の技法を使ってきらきらした布を織りあげ、それが光の柱のように作品を包んでいるというイメージだそうだ。
ミステリークロックは掌に乗るくらいの小ぶりなものも多いので、正直そんな御簾に隠すような見せ方はやめてくれって思ったけど(ジュエリー屋さんは裏側、留め金を見たがるので大体ひっくり返すし動かせるパーツは絶対動かす)、雰囲気はよかった。
よかったが、それは人が少ない状態でならだ。ごった返す人の群れの中に点から光の柱が下りてきて、なんてされても、神々しさは雑踏に負けてしまう。

さらに各ジュエリーはすべて箱に入っているのだけれど、これも木の箱に納められていた。ぱっと見、棺桶である。いや、厨子とか、もっと神々しいものを納める箱のイメージだったに違いないが、白木の細長い箱は私の中では完璧に棺桶だった。
ジュエリーは死なないのに、不釣り合いなものだなと思いながら見ていた。

ああでも、人間は死ぬ。
あの会場には、その「彼岸」感が何となくあった。
1000年もの樹齢の杉板、何百年人の手を通して伝えられた織物の技術、何億年クラスの宝石と、それを「美しくしたい」という執念で掘り出し磨き上げる人間の業が宿る命や肉体の儚さと精神の永遠性のアンバランス。
たかが数十年で死ぬ人間が、千年万年を掌に載せるのだ。
その場所は彼岸になってしかるべきだ。

しかし、神々しさのようなものは、人の雑踏にはてんで弱いらしい。
渋谷のスクランブル交差点で神々しいことをしようとしても、なんだかおかしなパフォーマンスにしかならないようなものかもしれない。

つまり、この展示のすばらしさを堪能するには、人の少ない状態で見ないといけなかったのだろう。
生きている人間は、あっという間に神々しさを壊す。すさまじいエネルギーだと思う。そうやすやすと彼岸になど行かせてなるものか。

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このエメラルドがすごい2019大賞。エメラルドは基本的にクラックやインクルージョンが入りやすく(ある意味そこが見どころにもなる。古代人は天国の庭園が見える石と呼んでいたらしいです)、きれいな緑色の透明なやつはクラックをオイルなどで埋めてきれいに見せているものが多く、そういうやつも結構お高い。
だから、生まれながらに透明で緑色が深くて、しかもこのサイズのエメラルドの場合、……お値段は………マンション一棟で足りるかな?
だって指輪サイズで1000万円とかだよ……なのにこのサイズでしょ、そこにダイヤモンドびっしりわにわにパニックなので、怖い。たぶん、これ一個で救える人生が500はある。たぶん。畏怖。

金額の価値って、ほんとにわけわかんないよね。
たった300万円の借金で10年間を棒に振る人もいれば、カルティエでサクッと1000万円するネックレスを買う人だっている。今まさに、この同じ時間に、同じ東京という都市の中ででも。

カルティエといえばの豹(パンテール)
ハイジュエリー、ファインジュエリー、つまり超お金持ち向けのジュエリーは、我々庶民が想像する「上品さ」なんてかけらも必要とされていないことが多い。

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これら一連の展示を見ている人がぽつりと「これをつけられる人なんているかしら」というようなことを言った。
その気持ち、すごくわかる。
値段が、ということじゃない。
どこにつけていくの?という事でもない。
あわせる服がない、なんてことでもない。
これを、手にしてひるむことなく自分のものとして身につけることができる人は、どれだけいるのかということを、これを見ている人間の多くが一瞬は考えたと思う。

作品に負ける?
そうかもしれない、勝負という事なら、彼らは私の人生よりも長く保たれ、私の生きている間にかかる金額よりも多くの価値を持ち、また私が稼ぐ額よりも高いのだろう。
しかし、私の人生は、このネックレスより「価値がない」か?
あるいは、このネックレスを持っていない人生は、持っている人生よりも劣っているのか?
それに対しては、どう考えたってNOといえる。
しかし、その上で、そんな価値を持っているとされているこれらジュエリーを手にしたとき、本当に人間を試される感じはある。圧倒的な存在を手にしたときの、浅はかさや浅ましさ、卑屈さ、テンションが上がったり下がったり、悩む必要のないことを悩んだり、また自分自身にそんな力がないのにこのジュエリーと同じだけの光を持っていると思って高慢になったりする。
言ってみれば、よく光る石がついた重いただの首飾りひとつが、人間をそうやって左右する。
むしろ、それほどのものが人間の手によって作り出されていることに、私は深い感慨を覚える。
人の業というけれど、その業がなければ、宝石は、ジュエリーはこんなに美しくならないのだ。愚かでみすぼらしく、それでいて高慢な人間だから「圧倒的な美があるに違いない」と思い込むことができるのだ。
何もかも捨てて自然に帰って生き、宝石への執着なんて持たない方が幸せな生き方だという言い分にも一理はあるかもしれないが、それを捨てるために人生をすり減らすよりも、業を抱えたまま愚かに幸せになる道を探した方がいいのではないかとさえ思う。
そして何もかも今よりも「自然派」だった古代人がみっちりとジュエリーを作っていたということもじわじわくるものがある。人間は最初からジュエリーを必需品としている。縁のない人がいたとしても、人類からジュエリーが失われることはほぼない。

ジュエリーについて話している時によく出てくるのが、「ジュエリーは人間力」ということだ。
人間としての力がない人はジュエリーを欲しがらないどころか、ちょっと怖がる節がある。
それは、様々な要因が重なっているけれど、人から騙されるのではないかという疑心暗鬼、清貧が良しとされる社会の風潮など「外からの圧力、外への恐怖心」がその基本にあると思う。
自分の好きなものを好きと自由に表明してよい、という経験に圧倒的に欠けている人は、好きなものを選べない。
特に高価格帯になるジュエリーにはそれが本当に顕著に出てくる。
金額や、他人の声という圧力がついて回る分、圧倒的にそれを覆すだけの強さが必要になる。

ここで大事なのは、そういう強さがない人よりも、強さを持っているのに必死でそれを押し隠している人のほうが、問題が大きいということだと思う。
そして、得てして、少なからずジュエリーや宝石に心をときめかせる人は単純に強いのだ。
貯金の有無、収入の多少、自己裁量所得の大小は後付けに過ぎない。
だけどそういうものにグッと押しつぶされて、好きなものを好きと言えない。きれいなものをきれいと言えない。
お金のことだけならまだ全然マシ。働けばお金は手に入る。それが500万円の商品であったとしても、買うことはできるのだ。だから、お金そのものは問題ではない。お金の問題にマスキングされた、個人の尊厳にかかわる部分のようなもののほうにずっと重きが置かれている。

お金でマスキングしてしまえば、諦められる。
1000万円のネックレスなんて無理だわ。それを持っていてどうするの?
そうやって、心の何かをなかったことにする。
値段さえなければ、あなたはそれを欲しいと思ったのか?
それとも値段があるから、欲しいと思ったのか?
どちらも非常に人間らしい、いい心のありようだと思う。高いからほしいというのも、非常に健康的なことだ。人間は社会性のある動物なので、他者からの評価=価格が高いことをとても大切にするタイプの人もいて、そういう人は「社会からの評価」をとても大切に思っている。
カルティエなどの大きな存在は、そういう「評価」をがっちり守ってくれる守護者のようなものだ。万能ではないにしろ。だから、ダイヤモンドのなめろうをずらっと並べることができる。それを求める強き人が、彼ら守護者をより強くするのだ。

それにしても、大きなエメラルドやひっくり返るほどのオパールなどをこぶしで殴りつけてくるような展示だった。

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業に囚われて生きることは、それはそれでこれほど美しく、残酷な存在を見せてくれる。お前は私の寿命よりも長く残って、私よりも大事にされ、私が一生で使う金と稼ぐ金を合わせたものよりも高額で取引されるかもしれず、私のことなど認識することもない(無機物だから)。なのに、私に愛される。愛や、恋は、対等である必要などないらしい。
それは、不公平なことなのだろうか。
あるいは、不公平は、悪いことなのだろうか。


「基本的に、ハイジュエリーの世界は、我々庶民が買えるような商品とは全く違う価値観です。庶民の考えるブランド像とは全く違います。それを言いたかったんじゃないですかねー」
まったくです。

そして、こうやって並べることができる作品がこういうものという事は、カルティエが表に出さない(出せない)もっとすごいものたちが、金庫なり、どこかの王族の持ち物リストや大富豪の宝石箱の中にゴロゴロある、ということでもあるのでしょう………

目に見えるものがすべてじゃないんですよね………
とても勉強になりました………

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つよく生きていきたい。