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ごはんは汚さずにいたいんだそれがカレーでも

ただいま酔っ払っております

なので、カレーの話をしよう。
いや、いまカレー食べてるからそういうこと。
下戸だから、ハイボールおいしいけど、半分も飲めないうちに酔ってる。
ダイエットしてるけど、カレーのごはんの話をしたい。酔ってるから

パクチーのせ。

わたしはカレーでもごはんは汚さずに食べたいんだ。カレーとごはんは、口に入った時に一緒になるべきで、その前から絡み合ってるのはダメなの。ロミオとジュリエットだってキャピレット家とモンタギュー家が対立してたからでしょ?最初から相思相愛の許嫁なんて空気でしかないわオキシジェン(酸素)は猛毒なのにないと死ぬみたいなのそもそもおかしいのよ。そうでしょ?

それがどうしても共にあらねばならないのなら、余計それは混ざり合ってはいけないの。自我の境界は確立せねばならない。

それが混じり合うときというのは、もうそれは個の死であり、人においてはオーガズムという向きもあるではないか。それは小さな死であると。

だから、ごはんは最後まで純潔を保たねばならないと思う。牛丼、中華丼、カレー。一体化を求める形の料理であってもだ。例外はある、うな丼と天丼。カツ丼はソースカツ丼のお互いが独立し合った精神を保っている佇まいは美しいのにあの出汁で煮てたまごで閉じたあれは許せない。うまいけど許せない。大体たまごを生でご飯にかけてっていうのもどうかと思うの、私は卵アレルギー(白身の生がアレルゲン)という立場からのポジショントークになるけれども白身の水っぽさとゲル状のコシはいただけないと思う。

ご飯は最後まで純潔を守っていてほしい。それを打ち崩すのは、口に入るとき。それまでは、たとえ皿の上であろうとも、何者をもきっぱりと拒むように白く決然としていてほしいのだ。それが挟持ではないのか。最後には混ざり合うことを受け入れるけれども、けして混ざろうとしない心意気を、噛み潰す直前までは訴えてほしいと思いながら、慎重にカレーとご飯を絶妙な塩梅で口に運ぶ。酔っ払っていたとしてもだ。

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つよく生きていきたい。