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「産まないなら、働け。」この言葉に潜む哀しき意味

「子供を産むつもりがないなら、せめて手に職をつけて働きなさい。」

これは、私が実際に実の母から言われた言葉です。

母と車で出掛けていたある日、運転中の車内で母は私に畳み掛けるように詰問しました。
「それで、あんたは子供産まないの?それとも、産めないの?」
「〇〇ちゃん(姉の子)を見て可愛いと思わないの?」
「自分で育てることに不安があるなら、ママがいつだってあんたの家に行って手伝うし、色々方法はあるんだからね」
「まあ…産む産まないは、あんたと旦那さんの考えだから仕方ないけど…でもねママはあんたたちを産んですごく良かったと思ってるから、子供を持つという経験は是非してほしいの」 

自分が不妊かどうかはそもそも興味がないし、姉の子供たちはもちろん可愛いけれど「だから自分も欲しい」なんて、そんな子供の我儘のような思考には至らない。
母が自宅に頻繁に来るなんて考えただけでそちらのほうがストレスだし、夫婦の考えに口出ししないと思っているならそれ以上の踏み込みは無用だ。

母の言葉はなにひとつ私の心には刺さらず、「それなら子供を産んでもいいかな」などと心を動かされることはない。
「いやー、それでも産まないかな」を繰り返している私に、母が最後通牒のように突きつけたのが、冒頭の言葉でした。

私は現在、夫の扶養の範囲内で働いています。
元々は結婚前から正社員でフルタイム勤務していたのですが、夫が連日深夜帰りのため自分が家事負担を100%担わなければならず、フルタイム勤務が難しくなり正社員を辞めることになりました。
とはいえ、個人的にオフィスワーカーがあまり向いていないという実感もあったし、なにより家事労働が好きで自分に向いていると思っていたので、扶養に入るのも「仕方なく」「嫌々」というわけでもなかった。
そんな話も、母には以前から伝えていました。それにも関わらず、母は私に「産まないなら、外で働け」と言ってきたのです。

怒りに手が震え、今すぐにでも車を飛び降りて逃げ出したくなった。
今でも、その言葉は暴力として私の胸に突き刺さっています。

では果たして、その言葉がどのように暴力だったのか。なぜその言葉を投げられなければならないのか。「産まないなら、働け。」その裏側にある意味を考えました。

「生産性」の呪縛

2018年7月、一本の論説が社会に衝撃を与えました。衆議院議員・杉田水脈氏が「新潮45」に寄せた、LGBTに関する寄稿です。

「彼ら彼女ら(LGBT)は子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。」

「生産性がない」と、「子供を作らない」。この2つの言葉を繋げた、杉田氏による論説が与えた衝撃は、ある意味で新鮮なものでした。
ヘイトスピーチととれる発言を、現職国会議員が公的な論説で発表したことに加え、2007年柳沢厚労大臣(当時)の「女性は子供を産む機械」と同様の発言を、女性政治家が公に発表した初めての機会でもあったからです。
LGBTの人権だけでなく、子供を産まないことにしたすべての人の人権を踏みにじる発言に対し、同年7月27日には自民党本部前に5000人を超えるデモ隊が集まり、抗議の声を上げました。
LGBTを象徴するレインボーフラッグの下、産まない選択をしたいわゆる「選択子なし」の人々も多く駆けつけ、私もその一人として「他人の価値を勝手に計るな」「私の生き方私が決める」と両手を挙げて叫んでいました。


しかしよく考えてみると、「LGBT」という部分を除けば、「産まない=生産性がない」という考え方を持っている人は一般的に非常に多く存在します。むしろそれが社会の主流とされてきた、といったほうが正確でしょうか。
多くの人は「LGBTなら、子供を産むことについては免責する」、杉田氏やLGBTフォビアは「免責しない」というだけの違いで、この国は「子供を産まない人」はそもそも責められる社会でした。

母親世代の「女性の人権」

私の母親世代、現在の70代以上の女性にとっては、20〜30代の頃はまだ女性が外で働くことが許されていない時代でした。

働きに出られず、家の中で家事をするしか許されなかった時代、「出産」は彼女たちが社会に参画するため、認められるための唯一の手段。
子供を産むという「生産性」を発揮して初めて、外でお金を稼ぐ、会社でプロジェクトを成功させる、社会に影響を与えるような仕事をするのと同じだけの存在であると自負することができた。
(実際には、それを「同等」と認めてくれる社会ではなかったのだけど。)

外で働けない劣等感、社会に虐げられていることへの反骨精神。
彼女たちの「出産」に対する思い入れには、そういったマイナスから生まれるパワーが強烈に加算されています。

そしてその劣等感から、ひとつの持論が生み出されました。

「何かを残さなければ、社会に顔向けできない。」
「何かを生産しなければ、社会に参画する資格がない。」

それは、あまりに孤独な怯えや強迫観念としか言いようがありません。
何かを残さなければ、生産性を持っていなければ、社会に自分の存在すら認めてもらえない。
結婚してから子供がなかなか出来ないと、両親や親戚、地域からも責められる。だからといって外に働きに出ることも認められない。
「生産性」なしには人権すら守られない時代が、私の母親世代にはそこらじゅうにあり、地方には今でも存在します。

しかしその時代は、もう終わりました。

「何を幸福と思うか」

現代はすでに、個人の幸福こそが最も優先される社会へと変革し始めています。
「多様性」という言葉はLGBTを中心にくくられがちですが、そもそもは「何を幸福と思うか」の感じ方の多様化であり、それを認める社会をダイバーシティと呼びます。

社会に対して何をもたらすか、子供を産むことや経済活動によって何を社会に献上するか、それ次第で社会に参画して良いかどうかが審査される時代ではない。
社会に参画するための条件条項を満たした生き方をしなければならない、という強迫観念からは、もう人々はとうに解き放たれています。

「産まないなら、働け。」そんなふうに言う人々は、こう言い換えることもできるでしょう。
「生きている以上、社会に還元しろ。」
この世に産んでもらった以上、子供を産むか、経済活動をするかで社会に恩返しをしろ、「社会にとって意味のある存在であれ」という主張です。

しかしそもそもこのご時世、少子化を憂いて子供を産む人などほぼいません。お国のために人口を増やさなければならないのは、経済がイケイケの時代か、戦時中くらいのものです。
今、お上が「子供を産まなければならない、出来れば3人以上!」と人々に呼びかけるのは、年金の払い手を確保し高齢者に金を回すため、ただその一点であると言って過言ではありません。
現行制度で定められた負担を負わせるために子供を産む必要性などない。子供を産むのはあくまで個人の意志、「子供が欲しい」という本質的な欲求からだけで良いはずなのです。

また、たくさんのお金を稼いでたくさんの消費をすることを、個人として望まない人々も増えてきています。
1950年代の高度経済成長期における「モノを持つ価値」は時代とともに変化し、経済の停滞期となる2000年代に入ると、逆に必要以上にモノを持たないミニマリズムやシンプルライフ、厳選されたモノや付加価値の中で丁寧に暮らすスローライフが人々の憧れとなりました。
外に出て働いて稼ぐこと、消費することでお金を循環させること、そういった手法での「社会貢献」もまた、人々の幸福活動から少しずつ離れ始めてきているのです。

「産まないなら、働け。」への答え

今の時代は、私達の母親世代には想像もしていなかった"自由"と"権利"の時代になったのでしょう。
自由はないにせよ、子供を産みさえすれば社会に認めてもらえた、それはそれでシンプルで分かりやすい権利です。彼女たちから見れば、何をすれば社会に認められるのかが曖昧である現代はあまりに危うく、過酷な時代なのかもしれません。
人と違う価値観であって良い、その代わりロールモデルのない人生を自力で開拓しながら生きなければならない。多様性の時代には、今までには必要なかったレベルでの精神的タフさが各個人に平等に求められます。

それでも、これからの時代の価値観は素晴らしい。誰にでも門戸が開かれる時代です。

子供を産まなくてもいいし、社会に大きな影響を与えるほどたくさんのお金を稼がなくてもいい。
そこまでしなくても、今の時代はちゃんと人権が守られる。 

夫婦ふたりが、シンプルに慎ましく暮らせるだけの収入をどちらか一方だけで作ることができるなら、もう一方は美味しい食事と清潔な住まいを作り、効率良い家計の回し方に専念したって良い。

生産性よりも、「個人が心地よく生きられているか」が重視される時代が、いま着実に勢力を伸ばし始めています。
もう、社会に認められるための強迫観念に縛られなくてもいい。それを、私達の母親世代に伝えてあげることが、精一杯の「社会のためにできること」なのかもしれません。

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