風が強く吹いている。12年後の10人を妄想する。(腐無)

あの箱根から12年、みんなはそれぞれの道を走っていた。

灰二は実業団の寮を出て、郊外に小さな家を建てた。たまに育成選手を住まわせているが、まぁ誰も居ない時でも、灰二の飯を食べたくてチームの仲間が集まってくる。
そこからグラウンドまでは徒歩で30分。全力で走る事は出来ないが、ジョグでなら行ける。風が気持ちいいくらいのスピードまで走れれば、灰二にはもう十分だった。
実業団が出来て10年が経とうとしている。選手の層も厚くなり、益々、力をつけてきた。灰二は整体師の資格を取ってコーチの傍ら選手のケアにも務めた。監督はそろそろ灰二に席を譲りたいと考えているみたいだが、灰二はまだまだ選手と寄り添っていたいと言う。

その日はオリンピックで銀メダルを獲得した走が帰国して、グラウンドに顔を出す予定だった。だが、取材に引っ張りだこでチームの練習時間までには間に合いそうもない。
ひと段落したら灰二の家へ直接行くと連絡があった。灰二は早めに練習を切り上げて、飯を作って待っている事にする。

走は二度目のオリンピックで銀メダルをとった。酷使し続けた膝を庇って腰を痛めていたが、それでもメダルを取った事に日本中の誰もが賞賛した。走は日本のトップに立ち、日本最強の選手になったと言っても過言ではないのだ。
次のオリンピックは34歳で迎える。このまま続けて次のオリンピックを目指すか、すっぱりと引退するか、灰二に相談するだろう。でも灰二は分かっている。走は、まだ走りたいと。まだまだ強くなりたいと思っている事を。分かっているから、やっぱり、きっと何も相談にならないかもしれない。
ただ、まぁ、コーチとして、ひとまず膝をゆっくり休める事はアドバイスすることにしようと灰二は考えていた。

走は夕刻にやって来た。台所の灰二に声をかけてから、それが当たり前かのように灰二の向かいの部屋に荷物を入れた。もちろん、走の部屋でも何でも無いのだが、いつしか、そこは走が帰る部屋となり、走の為の家具も置かれるようになった。
走は1階の部屋で、診察台のようなベッドに寝そべり、灰二に膝と腰を診てもらう。灰二は整体師の資格を取ったけど、治療はしない。筋肉の調子を確認して、マッサージするだけだ。後は専門家に任せている。そのくらいの距離がちょうどいい事を2人は知っている。
膝は思っていた以上に悲鳴をあげていた。1年はゆっくり回復する事を進めたが、どこまで守るかは走次第だ。腰は思ったより回復している事が分かった。膝を治している間に全快するだろう。
走は言葉少なにオリンピックの出来事を話す。日本人選手は走の他にあと1人、若手の有望株が出場していた。走より期待されていたが、当日まで調子が戻らず、オリンピックの圧倒的な空気に呑み込まれてしまった。走は支えてやれなかったと、悔しがっていた。
走は本当に強くなったと思う。

オリンピックには強化コーチとして一昨年引退した藤岡がついていた。藤岡は前回のオリンピックに出場して、8位入賞を果たしている。補足しておくと、この大会で走は5位だった。
箱根9区の記録はとうとう塗り替えられてしまったが、実業団に入っても藤岡と走の記録への戦いは、藤岡が引退するまで続いた。お互いがお互いを高め日本の長距離界を引っ張って来たからこそ、走がメダルを獲得出来たのだ。
そんな事を話しているうちに、走は安堵して眠ってしまった。あの時と変わらない無邪気な寝顔だ。いや、ちょっとはオッさんになったかな。

走が眠ってる間に、仕事を終えた双子が大きな荷物を持ってやって来た。
ジョータは実業団の誘いを断って、商店街の左官屋に弟子入りした。まぁまぁやれているみたいだが、灰二が遠征でしばらく家を空けると、外壁の色を勝手に塗り替えてしまうので、灰二は困っている。今日は早めに店じまいして、商店街の皆さんから貰った差し入れを持ってきてくれた。
ジョージは地元の実業団でしばらく活躍していたが、そのまま監督さんの娘さんと結婚して、監督の手伝いをしているらしい。コーチとは言わないポジションらしいが、詳しくは分からない。今も走る事が好きで、それを仕事に出来る事が嬉しいと言っていた。
双子は相変わらず仲がいい。葉菜ちゃんはジョータと結婚したが、それでも二人の関係は崩れなかった。お互いの家族でよく出かけていると話していた。

その直ぐ後にユキがやってきた。修習生になるはずだった4年生を箱根に捧げたので、無事に大学を卒業する事が出来た。秋口まではクラブ通いも再開していたみたいだが、ニートみたいなもんだったから、モテなかったそうでいつもボヤいている。
オリンピックの時期になると、どうも仕事が増えるらしく、会社で泊まり込む日もあるそうだ。弁護士も体力勝負なんだな。終電がなくなった時は近くに住むニコちゃん先輩のマンションに転がり込むから、ユキ用の部屋があるくらいだ。
40歳になったら独立する事を計画している。まぁ、ユキの事だからきっと都内の一等地にでも事務所を構えるんだろう。

ニコちゃん先輩も遅れてやってくるらしい。
4年生の時の箱根では裏方に回って、選手のサポートをしてくれた。でも走る事はやめていない。今も市民ランナーとしてハーフマラソンに出ている。じゃないとまたタバコを吸ってしまうからだ。
無事に卒業して会社を設立した。それと、ずっと同居してる女性がいるんだが、どうも結婚に踏み出せないと、ユキが心配していた。たまにユキが転がり込んでくるから踏み出せない気もするんだが、それは誰も突っ込まない。

少し後に神童とムサが一緒にやってきた。
神童は4年生の箱根でリベンジを果たし、区間2位に入った。裏方を引き受けてくれたニコちゃん先輩のおかげもあるだろう。
卒業後はしばらくサラリーマンをしていたが、30歳を前に実家に帰り農家を継いだ。地元の同級生と結婚して今や二児の父だ。毎年、農業を学びに外国人が下宿しているらしい。その外国人に走る事を教え、地元のマラソン大会に出たりしている。
神童はどこにいても神童だ。どこにいても人望が厚く頼りにされている。節目には上京してきて、灰二の家に顔を出してくれる。そんな時はいつもムサが迎えに来てくれた。今日のように。

ムサは卒業するまで2区を走りきった。理工学部だったので単位は危なかったが、先生が大目に見てくれた。大学院在籍中に大企業から引き抜きの話があり、会社勤めをしながら博士号を取った。
ムサは母国には帰るつもりはないらしい。日本で嫁さんも見つけたし、神童やニコちゃん先輩と市民マラソンに出るのが楽しみだからだ。それと、寛政大学の陸上部に留学生が入ると何かと世話をしているらしい。

しばらくして半透明の王子がやってきた。何だかんだ練習に参加していた王子は4年生の時、もう一度、1区を走った。3年生の時は足の早い後輩に譲ったが、大手町の観客の熱気に呑み込まれて力が発揮出来なかったからだ。
卒業後は週刊誌の編集者になり、思い存分漫画に明け暮れている。朝と夜が逆転したり、何日も眠らないなんた事はザラだと遠い目をしながら言っていた。
竹青荘くらい古いアパートに住んでいて、相変わらず漫画がびっしり詰まった部屋で寝起きしている。壁一面に漫画が積み上げられているが、一番よく見える位置に寛政大のユニフォームとジュースが飾られている。

キングも直ぐにやってきた。キングは無事に就職できた。12月に半ばに応募していた会社に箱根ファンの人事部長がいて、直々にオファーがあったそうだ。灰二が言っていた通り、箱根は就活にも有利だという事が証明された。
熱望していたマスコミ関係から少し外れはしたが、キングにとってやりたい事が出来る会社だった。だから、アメリカ横断ウルトラクイズの復活も諦めていない。それと、ディレクターでもないのにトレーナーを肩に羽織るのは、もう王様のマント的なやつだろう。

走は灰二がかけてくれた毛布の中で夢を見ていた。箱根をみんなで目指していた頃の夢だ。
オリンピックが始まる前までは悪夢を見る事も多く、うなされて夜中に目を覚ます事もしばしばあった。オリンピックが終わってからは取材やら時差ボケやらでちゃんと寝れていなかった。だから、しばらくぶりに深い眠りに落ち、全力で身体を休めていた。
走は目を覚ますか覚まさないかの狭間で夢を見ていた。白樺湖の風景をみんなで見ている夢だ。湖面がキラキラ光っていて眩しい。山々が青く空気は澄み、柔らかい風が走を包んでいる。
その風景をぼんやりと見ながら走は考えていた。走る事をもう一度、見つめ直してみようと。灰二が言った通り、先ずはゆっくり治療して、休んでいる間に走ると言う意味を改めて考えようと思っていた。
次のオリンピックはもう無理かもしれない。でも、最後にもう一度、走る事に真剣に向き合って、そして自分の投了を決めたいと思った。例え引退しても走る事は辞めないし、走れなくても辞めないと思う。灰二のように、ずっと走る事に寄り添って行きたいと思った。
フと気付くと走の周りにはみんなが居て、横に並んで風景を眺めていた。久しぶりに感じるこの感覚が、本当に心地良かった。
みんなは歩き始める。丘の向こう側へと行こうとしているみんなを、走はただ見つめている。一緒に歩き出していいものか迷っていると、振り返った灰二が走を呼ぶ。続けてユキや神童も声をかけてくる。王子は微笑んでいる。走は前に進もうと決めた。

重なるように、みんなの声がふわふわと聞こえてきた。走は心地よい夢から覚めてしまった。だけど、その心地よさは現実と繋がっていた。灰二とユキの小競り合いの声、双子とキングの響く笑い声、神童とムサが王子と合間見れない仕事の話をしている。
12年前もこんな賑やかな毎日を過ごしていた。走にとって、とても幸せな時間だった。灰二達が卒業してから少し寂しい竹青荘だったが、それでも竹青荘と過ごす毎日は楽しかったし、双子や王子やムサと最後の竹青荘を掃除したあの頃が懐かしい。
うとうととひと通り想いを馳せた後、むっくりと起き上がる。ちょうど到着したニコちゃん先輩が走に気づいた。ニコちゃん先輩が向こうだ、と指を指す。

部屋に入ると双子が持ってきた差し入れと灰二が作ったおかずを並べて宴会が始まるところだった。走はそのご馳走よりも先に「走!銀メダルおめでとう!」の文字が目に飛び込んだ。神童が持ってきた横断幕が壁に掲げられている。いつの間に作ったんだろう。いや、いつの間にみんな来たんだ。走は呆然と部屋を見渡していた。灰二がこっそり呼んでいたと言う事に走が気付くのはまだまだかかりそうだ。
みんなで乾杯する。おめでとう!と口々に言われて、走は照れ臭かった。銀メダルである事が悔しくないわけがない。だけど、こうやって待っていてくれる仲間がいて、一緒に喜んでくれる仲間がいて、嬉しかった。何色のメダルだったとしても、たとえ奮わない成績だとしても、きっとみんなはこうして待っていてくれたんだろうと思うと、ただただ嬉しかったのだ。
涙が出そうになった走を灰二が優しい目で見ている。懐かしいみんなであの日々を語り合う。12年前に一緒でタイムスリップしたように。今でも鮮明に覚えている、あの場面、あの出来事を。美しい思い出ばかりではないかもしれないけど、それでも語らずにはいられなかった。何度目かの乾杯で、キングが銀メダルを見せろと言ってきたので、持ってきてない事に気付いた。仕方がないのでまたメダルを披露する会を開く事でみんなの文句は収まった。
でも、それは、いつになるか分からない。みんな家族がある。それぞれの生活があって、それぞれの道を進んでいる。あの時のように何か一つの事を目指すことはもう無いだろう。
でも、やっぱり、またこうやって集まるんだろう。あの時、一緒に過ごした時間を思い出して語り明かす。今の生活や夢や愚痴を語り合うかけがえのない仲間だ。箱根を目指さなければうやって集まることも無かっただろう。だからこそ、これからも、きっと、こうやって集まるんだろう。
走はみんなを眺めて考える。鮮明なようで靄がかかったような光景だ。時間が戻ったのかと錯覚してしまいそうになるが、直ぐにその靄は晴れて、この幸せを噛みしめる。

走は実業団へ行っても、オリンピックで銀メダルをとっても、一人で走っているんじゃないと感じていた。いつも誰かと走っている。初めて走る道も空も風も、誰かと一緒に感じているんだ。

#風が強く吹いている

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