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親密な関係

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2015年8月の記事一覧

第一章 夏のにおい 20

   20

「どんな感じですか? 自分の息を観察できましたか?」
「ちゃんとできたかどうかわかりませんが、暖かい空気が出ていき、それから新鮮な空気がはいってくるのがわかりました」
「いま、なにをかんがえてましたか?」
「あ……」
 真衣がまた目を大きくする。
「なにもかんがえてなかったような気がする。ただ呼吸のことだけ観察していて……」
「それでいいんです。いまここにいる自分自身に気づきつづける

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第一章 夏のにおい 19

   19

 瞑想状態で思考を手放し、ただ身体の感覚に集中していると、時間の経過が不思議な感じになる。あっという間に一分がたったと思うと同時に、とても長く感じることがある。時間が一定の速度で進んでいるという思考的な感覚ではなく、実際には相対的に速度が変化し、伸びちぢみしていることを体感する。
 真衣のスマートフォンが「ピピピピ」と鳴る。
 真衣があわてて目をあけ——どうやら目を閉じていたらしい—

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第一章 夏のにおい 18

   18

 絵を描くときにもっとも大切にしていること……
 十年前だったら、これを「むずかしい質問」と感じたかもしれない。しかし、いまはちがう。
「私が注意しているのはたったひとつです」
「どんなことでしょう」
「頭を使わないことです」
「頭、を……?」
 真衣はけげんな顔になる。
 私たちは木製のベンチにならんで、おなじ方角を向いてすわっている。私たちの前には舗装されていない、土がむきだしに

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第一章 夏のにおい 17

   17

 もともとは自然林の丘陵《きゅうりょう》だったものが、このあたりの宅地化が進むにつれて私有地であったものを行政が買い取り、公園として整備したものだ。テニスコートが何面かと、少年野球やサッカーのためのグラウンドがひとつある。それを取りかこむようにして桜やポプラ、欅《けやき》などが植えられ、梅林《ばいりん》もある。自然林も一部残してあって、野鳥のために植生が保護されている区画と、ほかには

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第一章 夏のにおい 16

   16

「事故」にあうまで、私は自分自身の感情や身体のことをほとんど注目したことがなかった。いまになってかんがえてみれば、自分自身をどれほど粗雑にあつかっていたか。そしてないがしろにしていたか。
 私の感覚は自分の外側にばかり向けられていた。絵描きなので、もちろん見るもの、見えるものには繊細なつもりでいた。目ばかりではなく、その他の感覚も、自分の外側にあるもの、外側から自分が受け取るものにつ

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第一章 夏のにおい 15

   15

 真衣の肩は華奢《きゃしゃ》で、つよくつかむと壊《こわ》れてしまいそうに思える。
 私はあわてて力をゆるめ、真衣の肩から手をはなそうとする。その手を真衣が上から押さえる。
「おつかまりください」
「しかし……」
「私は平気です。こう見えても意外に頑丈《がんじょう》なんですよ。先生のお役に立てるのがうれしいんです」
 彼女が頑丈であるとは思えないが、その手が私の手の甲《こう》をしっかり

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第一章 夏のにおい 14

   14

「大事に……というのはそうですけど、尊敬しています」
「私のことを尊重してくれているんですね」
「はい」
「それはやはり、私が絵描きだから?」
「はい。わたし、先生からいろいろ学ばせていただければと思っています。それって、欲得《よくとく》ずくみたいに聞こえるでしょうか」
「いいえ。それはあなたのなかに成長したい、自分が絵描きとしてよりよい存在になりたいという望みがあるということでしょ

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第一章 夏のにおい 13

   13

 私たちが歩いている道路の左側は一軒家がならんでいて、それぞれ門があったり、前庭があったり、ブロック塀や板塀や生垣があったりと、変化がつづく。カイヅカイブキの濃い緑の密な生垣では、朝のつよい日差しがさえぎられる。前庭が広くとってあって、そこに車が置いてあったり、背の低い植木や花々の鉢植えが置かれていると、さえぎられない日差しが私たちを照らす。
 日にあたったりあたらなかったりしながら

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第一章 夏のにおい 12

   12

 夜中にまとまった雨が降り、朝方は寒いくらいに気温がさがった。
 日本列島の南側を、台風から熱帯低気圧に変わった渦が通過し、そのせいで雨になったのだろう。東北の東の沖合へと抜けた低気圧が、冷たい空気を列島にもたらしている。
 今朝は散歩に出ることになっていた。これまでは寛子さんが付き添ってくれていたが、今日は真衣が同行してくれる。ひとりでも歩けると思うが、なにかあったときに心配だから

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第一章 夏のにおい 11

   11

「私が絵を描いているのは、多くの人に喜んでもらうためだろうか、と」
 そこまでいうと、私は真衣に聞いてみたくなる。
「あなたはだれのために絵を描いていますか」
「わたしは……わたしの絵を買ってくれる人はいません。だから、いまはだれかのために描いているわけじゃないです」
「つまりあなたは、だれかに絵を買ってもらうために、つまりあなたの絵を買ってくれる人のために描いている、ということです

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第一章 夏のにおい 10

   10

「昨日《きのう》の話のつづきをしてもいいですか?」
「もちろん。でも、どんな話だったかな」
「わたし、絵を描くことで生きていけたらいいなと思ってます」
「ええ、昨日はそういってましたね」
「でも、先生はそのことについてちがう意見を持っていらっしゃるようでした。絵を描いて、それを売って、それで生活の糧《かて》を得る。そういうことがあまりすすめられないという感じをわたしは受けたんです」

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第一章 夏のにおい 9

   9

 やってくると最初にアトリエの床掃除に取りかかる。掃除機は使わない。埃が立たないように、埃を吸着するモップを使う。
 彼女が床掃除をしているあいだ、邪魔にならないように私はキッチンに行く。クロワッサンとヨーグルト、フルーツといった、軽い朝食をそこでとる。
 アトリエにもどると、床掃除はもう終わっていて、真衣は私の仕事机のまわりを片付けたり、拭いたりしている。私はリクライニングチェアにす

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第一章 夏のにおい 8

   8

 朝は早くめざめる。
 たいていは新聞配達のバイクの音で最初に目がさめる。しかし、まだ起きださない。
 眠りにつく前、ベッドのサイドランプの明かりを消すときに、寝室の遮光《しゃこう》カーテンをあけるようにしている。そのため、空《そら》が白《しら》んでくるようすが、レースのカーテン越しに見える。
 各紙の新聞配達が時間をおいて何台かとおりすぎ、空が明るくなってくると、鳥のさえずりが聴こえ

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第一章 夏のにおい 7

   7

 私の話を聞いて真衣はなにかかんがえている。彼女の視線は私の絵に落ちている。
 私はいう。
「その絵は自分の好きなように描いてみようと思って描きはじめたものです」
 真衣はなおも私の絵を見つめたあとに、私に目線を向ける。
「だれかに見てもらうために描いてはいない、ということですか?」
「そうですね」
「でも、わたしも絵描きだから、自分が描いたものはだれかに見てもらいたいです。いつもそう

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