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親密な関係

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2015年10月の記事一覧

第四章 冬のぬくもり 3

   3

「無理に好きにならなくていいですよ。そのときが来れば自然に好きになるんだから」
 私は笑いながらいう。真衣は私からカップを取りかえし、もう一度口にふくむ。そしてやはり顔をしかめる。
「先生はいつからコーヒーが好きになったんですか?」
「いつからだろう……」
 私はすこしかんがえる。
「子どものころから好きだったような気がする。いや、子どものころは甘いコーヒーしか飲めなかったな。コーヒー

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第四章 冬のぬくもり 2

   2

 私はベッドを離れると、衣服を着て、手すりをつかんで階段をゆっくりと階下へと降りる。いつもおこなっている動作だが、それは転落しないようにという注意が働いているためだ。今朝はそれにくわえて、眠っている真衣への意識がある。
 キッチンに行き、やかんでお湯をわかす。そのあいだに、冷蔵庫からコーヒー豆がはいった容器を出し、電動式のミルに豆をいれる。分量は手のひらではかる。いつもは手のひらに一杯

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第四章 冬のぬくもり 1

   1

 いつものように早朝に目がさめる。何時に寝ても、だいたいおなじ時間に目がさめる。そのあと眠くなることもあるが、とにかくいったん目がさめる。
 いつもは寝る前に遮光《しゃこう》カーテンをすこしあけ、夜明けの光が射《さ》しこむようにするのだが、今日はそれを忘れている。が、遮光カーテンのむこうはおそらくうっすらと明るくなっていることを私は感じている。
 午前六時をすぎているだろうか。
 私の

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第三章 晩秋のひかり 17

   17

「わたしも先生を大事にしたい。先生のお身体の回復にわたしも役立ちたいです」
「役に立ってますよ、十分」
「ほんとですか。それってどんなことですか」
「こうやって来てくれたこと。真衣がここにいるだけで元気になります。きみが来てくれなかったあいだ、とてもつらく、寂しかった」
「ほかになにかできることがあるといいんだけど。マッサージはどうですか? この前みたいに」
「ありがたいですね。マッ

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第三章 晩秋のひかり 16

   16

 自分にいい聞かせているのかもしれない、と思いながら、私はそういう。
「きみがいま、ここにいる。私の腕のなかにいる。私がここにいる。きみを抱きしめている。いまがすべてなんです」
「はい。これがずっとつづけばいいのに。永遠につづけばいいのに」
「それは事実にはなりにくい」
「わかってます。でもいまは事実でしょう。わたしがもっと早く生まれていたらよかったのに」
「それは仮定の話ですね」

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第三章 晩秋のひかり 15

   15

 彼女が私のところに来るのは、安心だけではないという。もっと積極的ななにかなのだという。しばらくここに来れなかったのは、自分のなかにあるその積極性がこわかったからだという。自分が積極的に私に接近することで私に迷惑がかかり、結果的に遠ざけられることがこわかったのだという。私からうとまれるのではないかということをおそれていたのだという。
「なぜ私がきみをうとんじる必要があると思ったんです

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第三章 晩秋のひかり 14

   14

 彼のことを話すのはあんまり気が進まないです。でも、先生がそれを望まれるなら、すこしだけ話しますね。これはもう話したと思うけど、彼は大学の二年先輩です。絵画ではなく造形のほうをやっていて、とくにインスタレーションがやりたいといってました。去年の春に卒業して、画廊でアルバイトをしながら制作をつづけてました。画廊はバイト代が安くてそれだけじゃやっていけないのと、制作費も必要なので、夜はラ

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第三章 晩秋のひかり 13

   13

 真衣の身体の動きが止まる。死んだように呼吸も止まる。私はそれを予測していて、彼女のパニックが手にとるようにわかる。
 彼女がほんとうに死んでしまわないうちに、私は説明を試みる。事件による脊椎《せきつい》の損傷が身体のいたるところに麻痺をもたらしたことを。幸いなことに、それらの大部分はリハビリの成果もあって回復しつつあるが、一部はまだ機能しない部位が残っていること。その残っている一部

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第三章 晩秋のひかり 12

   12

「ただこうしていたい、ような気がします。ただこうしているだけで安心していて、これがつづくことを望んでいるのかもしれません。でも……」
 真衣はすこしことばを宙に浮かせる。
「先生がなにかされるなら――望んでおられるなら、そちらに行ってみたい気もします。とてもどきどきするけれど、あまりこわいとは感じてません」
「この先に進むことの決断を私に任せたいんですか?」
「はい、ってこたえるとず

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第三章 晩秋のひかり 11

   11

 真衣の胸のふくらみの片手を押しあてたまま、私は動きをとめ、たずねる。
「きみがどうしたいのか教えてもらえますか」
 真衣はこたえない。呼吸がとまっているように思える。私の質問に緊張したのかもしれない。私は真衣の背中にまわしたほうの手にすこし力をいれて、引きよせるようにする。
「この先へと進みたいのか、それともただ私とこうしていたいだけなのか、知りたいんです」
「…………」
 真衣の

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第三章 晩秋のひかり 10

   10

 気がつくと私はすこし眠っている。真衣の左手は私の右手の上にある。ちいさくて、私より体温がやや低い真衣の手。
 私が眠っていることに気がついているのかいないのか、真衣は話をつづけている。自分がこれから描きたいと思っている絵の話だ。私はそれを聴いているつもりで、また眠ってしまう。
 しばらくしてまた目をあけると、真衣が話をやめて、こちらを見ている。
「先生、お眠りになってください」

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第三章 晩秋のひかり 9

   9

 私は寝室のベッドに横になっている。
 もうすぐ午後七時になろうとしている。リビングのほうから音楽が聴こえてくる。私がセットしたCDの音で、ビル・エバンスの五十年も前に録音された演奏だ。五十年前の音は、しかしみずみずしく、薄手《うすで》のワイングラスのような手触《てざわ》りをいまに伝えている。
 真衣がキッチンでなにかしている。
「お腹は減ってない?」
 とたずねたのは私のほうだ。私は

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第三章 晩秋のひかり 7

   7

「ああ、西田先生の……」
 美沙はうなずきながら、わずかに不審な表情を見せる。しかし、それには触れずに、彼女は話をもどす。それが私には救われる感じがする。
「なんの話をしてましたっけ?」
「あなたの絵から受ける印象と、あなたご自身の印象とが、だいぶかけはなれているように感じるといったら、あなたはちょっと怒ったんですよ」
「ああ、その話。それだったら、正確には怒ったんではなく、怒りたくな

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第三章 晩秋のひかり 6

   6

「泊まってしまったりして……それに、先生がお休みされているところに……」
「ああ。それだったら、私は気にしていません」
 といってから、私はいいなおす。
「気にしていない、というのは違いますね。あなたが……きみがなぜ私の寝床にやってきて眠ったんだろう、ということについては、ずっとかんがえてました。それについて聞きたいと思ってたんです。でも、きみはあれっきり来なくなってしまった」
「すみ

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