第一章 夏のにおい 13


   13

 私たちが歩いている道路の左側は一軒家がならんでいて、それぞれ門があったり、前庭があったり、ブロック塀や板塀や生垣があったりと、変化がつづく。カイヅカイブキの濃い緑の密な生垣では、朝のつよい日差しがさえぎられる。前庭が広くとってあって、そこに車が置いてあったり、背の低い植木や花々の鉢植えが置かれていると、さえぎられない日差しが私たちを照らす。
 日にあたったりあたらなかったりしながら、私たちはゆっくりと歩いていく。
 道路の右側は、アトリエや二階の寝室の窓から見える広い敷地のお屋敷で、古びた板塀の向こう側に巨木がうっそうと茂っている。
 楠《くすのき》の梢《こずえ》で鳥が何匹か、うるさく鳴き騒いでいるのが聞こえる。私は歩をゆるめて、鳥が見えないか梢をすかし見てみる。真衣も楠の木を見上げる。
「あれはなんていう鳥なんでしょう」
「オナガでしょう」
 ギャーギャーとうるさく特徴的な声で鳴いている。
「このあたりに多いんです」
「これだけ緑が多いと、鳥もたくさん来そうです」
「そうですね。ほかにもシジュウカラやメジロ、ヒヨドリ、そうそうこのあいだはコゲラを見ましたよ」
「コゲラ?」
「キツツキの仲間です。木の幹をつつきながら移動していて、なかなかかわいいのです」
「先生は鳥におくわしいんですね」
「くわしいというほどじゃない。なんとなく好きなんです。一時は鳥の絵ばかり描いていたこともあります」
「いま描いておられるのにも鳥が出てきます」
「鳥かどうかはわからないんです」
「私には鳥のように見えます」
 なにかを描いたとき、それがだれかにどのように見られるかは、こちらがコントロールすることはできない。犬を描いて猫だといわれることもあれば、雪景色を描いて夏の風景だと思われることもある。私が描いたものが相手にそのままとどくことはまずなく、相手のフィルターをとおってとどくことになる。フィルターは経験であり、記憶であり、分析や判断であり、思いこみでもある。自分の描いたものがどのように相手にとどくのか、私はあらかじめ予測したり計算することをやめてしまっている。
「あなたには鳥のように見えるんですね」
「わたし、まちがってます?」
「まちがいとか正しいというものはありません」
「わたしが先生の描かれたものを鳥だと思ってしまったことが、先生には不愉快なんでしょうか」
「そんなことはありませんよ」
 私は思わず笑みをうかべてしまう。
「あなたは本当に私のことを大事に思ってくれているんですね」

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