第一章 夏のにおい 8


   8

 朝は早くめざめる。
 たいていは新聞配達のバイクの音で最初に目がさめる。しかし、まだ起きださない。
 眠りにつく前、ベッドのサイドランプの明かりを消すときに、寝室の遮光《しゃこう》カーテンをあけるようにしている。そのため、空《そら》が白《しら》んでくるようすが、レースのカーテン越しに見える。
 各紙の新聞配達が時間をおいて何台かとおりすぎ、空が明るくなってくると、鳥のさえずりが聴こえだす。カラスの鳴き声も響いてくる。車の通りすぎる音も遠くに増えてくる。
 空が白みはじめてから朝日の切れっぱしが窓の一番上に差しかかるまでの小一時間、そのあいだに私はベッドを抜け出し、着替えて顔を洗い、コーヒーをいれる。
 不思議なことに、リハビリをつづけているあいだはまったくコーヒーを飲みたくならなかった。たばこは随分前――若いときにやめてしまっていたが、コーヒーは毎日欠かさなかった。アルコールはあまり強くないので、まったく飲まなかったわけではないが、「事故」以来まったくといっていいほど口にしていない。
 自分の足で立ちあがり、歩けるようになったとき、コーヒーが飲みたくなった。自分の手で豆をひき、お湯をドリップして、ひさしぶりにコーヒーを飲んだとき、自分が回復し、この世界に復帰できた実感があった。ふたたび水面に顔をだした気分。
 今朝《けさ》もまだ日が出ない時間にコーヒーをたて、音楽もかけずに、アトリエの窓側にすわっていた。空気はしめっているが、夜の冷気が残っていた。窓を半分あけて街の音を聴いていた。
 アトリエは東南側に面していて、細長い芝生の敷地に白樫《しらかし》が立っている。山茶花《さざんか》の垣のむこうはそれほど交通量の多くない生活道路になっている。向かいの家は敷地の広い、古いお屋敷で、よく手入れされた松や楓《かえで》がある。さらにその先には欅《けやき》や楠《くすのき》、スダジイなどが生《お》い茂った、ちょっとした森のように見える敷地が広がっている。朝の太陽はその森をかすめるようにしてのぼってくる。森の上に顔を出した朝日が、アトリエの窓にも陽光をもたらす。
 それまでの時間、コーヒーを二杯飲む以外になにもせずに窓際にすわっているのが、このところの私の日課だ。
 日がのぼると仕事に取りかかる。いまはまだ長い時間、集中して描きつづけることは困難だ。十分描いて二十分休む、そんなことをくりかえしながら、なんとか数時間、絵に向かう。そして九時になると、真衣がやってくる。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会

共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を8月11日(火)夜におこないます。

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