第一章 夏のにおい 7


   7

 私の話を聞いて真衣はなにかかんがえている。彼女の視線は私の絵に落ちている。
 私はいう。
「その絵は自分の好きなように描いてみようと思って描きはじめたものです」
 真衣はなおも私の絵を見つめたあとに、私に目線を向ける。
「だれかに見てもらうために描いてはいない、ということですか?」
「そうですね」
「でも、わたしも絵描きだから、自分が描いたものはだれかに見てもらいたいです。いつもそう思って描いています」
「自分が好きなように絵を描くことと、その絵がだれかに見られるということは、べつのことだとかんがえています」
「よくわかりません」
「花はただ咲きます。咲きたいから咲く、あるいはただ咲くようにできているから咲く。それだけのことなんですが、それをだれかが見てきれいだといったり、名前をつけたりする。そのことは花にとってはべつのことだと思いませんか」
「花は見られてうれしくないんでしょうか」
「どうでしょうね」
「わたしは自分の絵がだれかに見られるとうれしいです」
「見られてひどくけなされても? まったく売れなくても?」
 真衣はちょっと困った顔になる。しかし、私から視線をそらさない。視線が動き、私全体を調べるように見る。そしてふいに私のほうに歩みよってくる。私は彼女になにが起こったのか知りたくて、ただ彼女が近づいてくるのを見ている。
 彼女は私のわきに立つと、私の身体にかけてあるタオルケットをなおしはじめる。話しているうちにずれて、いまにも落ちそうになっていた。
 彼女がまとっていた空気がふわりと私をつつむ。私をつつんでいた空気が彼女の空気とまじりあう。彼女の空気は私のものより暖かく、しかしさらっと乾いていて、かすかなにおいをふくむ。私の空気にもたぶんにおいがあるはずだが、自分ではわからない。彼女の空気のにおいは、彼女の身体から発《はっ》するものか、それとも身につけたなにかかから発するものなのか、それも私にはわからない。
「ありがとう」
 そんなことまでしなくていいのだ、と思いながら、私はいう。
「いえ」
 タオルケットをなおし終えた真衣はいう。
「やっぱりわたしは絵を描いて生活できるといいなと思うんです」
 それにたいする答えは私のなかにすでにあるが、彼女にどう伝えればいいかわからなくて、私は口をつぐむ。
「明日も来ます。来ていいですか?」
 私はうなずく。
「先生が見ているものをわたしも見たいんです」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?