第一章 夏のにおい 14


   14

「大事に……というのはそうですけど、尊敬しています」
「私のことを尊重してくれているんですね」
「はい」
「それはやはり、私が絵描きだから?」
「はい。わたし、先生からいろいろ学ばせていただければと思っています。それって、欲得《よくとく》ずくみたいに聞こえるでしょうか」
「いいえ。それはあなたのなかに成長したい、自分が絵描きとしてよりよい存在になりたいという望みがあるということでしょう? それはだれにでもあるニーズで、自然なものだと私は思いますよ。ただ……」
「ただ、なんでしょう……?」
 私たちは歩《あゆ》みを再開させている。ゆっくりと。
 真衣は安堵《あんど》のほほえみとともに、小首《こくび》をかしげて私を見る。
「いまの私に、あなたの学びに寄与できるものがあるのだろうか、という疑念はあります」
「なぜそんなことを思われるんでしょう」
「私は絵描きとして一度終わった人間です。あなたが知っている川久保《かわくぼ》研《けん》は一度死んだんです。いまここにいる私は、たぶんほとんど別人であって、ひょっとしたらもう画家ですらないかもしれない。私はもう二度と以前のようには描けないし、描くつもりもないのです」
 最後のことばをかき消すようにして、ゴミ収集のパッカー車がエンジン音をうならせながら私たちの右わきを通りすぎる。助手席に乗っている若者が、ちらっと私たちに視線を向ける。真衣とほぼ同年齢に見える青年だ。この人たちが毎日、どのように仕事し、どのような生活をしているのか、私にはほとんど想像がつかない。そんな自分にたいして、みずから攻撃するような罪悪感をおぼえることがある。
 絵描き。
 しょせんは虚業《きょぎょう》ではないか、という罪悪感が、私のなかのどこかに根強くある。その私の思考を、真衣の屈託《くったく》のない声が救ってくれる。
「以前の先生のことを私は知りません。もちろん絵は存じてますけど、絵描きとしての先生のことは、いまここにいらっしゃる先生のことしか知りません。わたしはもっと先生のことを知りたいし、先生がどのように世界を見ていらっしゃるのか知りたいんです。ご迷惑でしょうか」
 そんなことはない、と答えようとして、私は道路のちょっとした段差につまづく。転《ころ》んでしまうほどではないが、前のめりのよろけたところを、真衣がすばやく右腕をつかんで、バランスを確保してくれる。私はやや動揺し、気がついたら真衣の肩に右手を置いて、身体のバランスを取っている。

共感カフェ@東松原〈小春食堂〉
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