第一章 夏のにおい 9


   9

 やってくると最初にアトリエの床掃除に取りかかる。掃除機は使わない。埃が立たないように、埃を吸着するモップを使う。
 彼女が床掃除をしているあいだ、邪魔にならないように私はキッチンに行く。クロワッサンとヨーグルト、フルーツといった、軽い朝食をそこでとる。
 アトリエにもどると、床掃除はもう終わっていて、真衣は私の仕事机のまわりを片付けたり、拭いたりしている。私はリクライニングチェアにすわり、そのようすを見る。
 私の絵は昨日よりだいぶ進んでいる。今朝はいつもより疲れがなく、やや長く絵に向かっていられた。
 真衣が机の天板をきれいに拭きあげ、いつものように絵をもとにもどすのを見て、私は声をかける。
「よかったら、今日も、きみが見ているものを教えてもらえませんか」
 一瞬、はっと私を見てから、すぐにうなずく。
「はい」
「今朝はだいぶ描けましたよ」
「昨日からずいぶん進んだように見えます。水面にたくさんのものが浮かんで、あるいは水面から離れて存在したり……そうですね、なんだか動いているように見えます。おかげで水面そのものはだいぶ隠れて大きな楕円がほとんどわからなくなっています。でも、そこに流れる水の存在がうしなわれているわけではありません。動いているものは鳥の影のように見えます。これは鳥ですか?」
「鳥かもしれませんね。自分ではなんだかわからない。なるべく判断や分析をせずに、ただ見えてきたものを写しとろうと試みています。たしかに動いています。なにか羽ばたき、すばやく動くものが、水面をかすめてやってきた。それをただ写しとってみました。どうでしょう、わるくない感じだと自分では思ってるんだけど」
「エネルギーを感じます。生きている物体のエネルギーがここに見えて、画面の集中点となっているみたい。先生はこれを中心に仕上げていかれるおつもりですか?」
「それはわからない。でも、その鳥のようなものに大きな力点が生まれていることはたしかでしょうね。あなたがそれを生きているエネルギーといってくれたことがうれしいな」
「生命を感じます。とても不思議な感じです」
「不思議?」
「絵を見ていてこんな気持ちになったのは初めてです」
「どんな感じですか? よかったら教えてください」
「うまくいえないけど……この鳥のエネルギーは見ている者に向かっていて、見ている者にも生命のエネルギーがあることに気づかせてくれるみたいな……」
「見ている者、というのは、つまりあなたですよね」
「はい」
 真衣は絵から目をはなして、私を見る。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会

共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を8月11日(火)夜におこないます。

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