編物のススメ(7)ジェンダーの問題を提起する編物するという行為
編物をはじめてもう7、8年くらいになるけれど、男性の編物仲間はいまだにできない。
女性の編物仲間は、たとえば「共感編物カフェ」を開催すれば何人か集まってくれる。
現実に編物をする男は少ない。
そもそも編物は女がやるものだと思っている人が多くないだろうか。
男性も女性も、あるいはそれ以外の人も含めて。
なぜだろう。
編物はさまざまなものを自分で作れる。
糸と編み針さえあれば、いつでもどこでも作れる。
実用的なものから趣味的なものまで、工夫しだいではオリジナルなものも作れるし、実用的な作品の編み方が無数に公開されている。
本もたくさん出ている。
最近ではYouTube動画でわかりやすく解説されている。
男に限ることではないと思うけれど、多くの人は子どものころからなにかしらものを作るのが好きだった。
お絵かきから始まって、折り紙、プラモデル、いまだとフィギュアとか。
小学校の家庭科の時間には、男女の別なく裁縫道具を使って雑巾を縫ったりした。
楽しかったな。
中学校にはいると、男子は技術、女子は家庭と授業が分かれ、内容も別々になった。
なぜそんなことをするんだろう。
男子は裁縫や料理をやってはいけないのだろうか。
女子は椅子や本棚を作ってはいけないのだろうか。
どこかの時点で「男らしいこと」「女らしいこと」というものが区別され、いつまにかすりこまれ、そしてすりこまれてしまっていることにすら気づかなくなってしまっていく。
編物もそうで、いつのまにか「編物は女がするもの」という漠然としたイメージがすりこまれていて、男の側からすれば自分の趣味のなかに編物をするという行為はほとんどはいってこない。
ひょっとして料理ははいってくるかもしれない。
趣味ではないが、育児も積極的に関与しようとしはじめている人はわずかながら増えているかもしれない。
社会的風潮としてそういう傾向がわずかに出てきている。
しかし、編物はどうだろうか。
女性の側にも、男が編物をするというとどこか奇異な目で見てしまうような所ろがあるのではないだろうか。
身近な知り合いの男性に「いっしょに編物やらない?」と誘う女性はいるだろうか。
私が編物をやってみて気づくのは、まわりからの奇異の視線だ。
といっても、突き刺さるような鋭い悪意をもったものではなく、漠然とした違和感を含んだめずらしいものを見るような視線を感じる。
「男なのに?」
「髭も生やしたれっきとしたおじさんなのに?」
男からも女からも、年寄りからも子どもからも、そんな視線を感じる。
ひょっとして私のようなおじさんが編物をやっているというその行為そのものが、ある種のインパクトを人々にあたえているのではないか?
私の編物行為そのものが、ある種のメッセージ性を含んでいるのではないか?
ひょっとしてそれは、一種のパフォーマンスといってもいいような表現行為に近いものになっていないか?
だとしたら、それはなぜなのか。
私がどこかで、公園とかカフェとか電車のなかとか、編物にいそしんだとして、そのとき人はどんな反応をするだろうか。
それはどんなメッセージを発するのだろうか。
(つづく)
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