第一章 夏のにおい 11


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「私が絵を描いているのは、多くの人に喜んでもらうためだろうか、と」
 そこまでいうと、私は真衣に聞いてみたくなる。
「あなたはだれのために絵を描いていますか」
「わたしは……わたしの絵を買ってくれる人はいません。だから、いまはだれかのために描いているわけじゃないです」
「つまりあなたは、だれかに絵を買ってもらうために、つまりあなたの絵を買ってくれる人のために描いている、ということですか?」
「そういうことになるかもしれません」
「でも、いまはだれも買ってくれない」
「はい」
「いま描いているあなたの絵はかわいそうですね」
「かわいそう?」
 真衣は眉をひそめる。
「私が絵を描くのは、絵が売れていたときも、絵が売れなかったときも、そしていまも、自分自身のためです」
「先生のため……?」
「妻が亡くなったとき、気づいたんです。私にとって自分の絵が売れようが売れまいが、それはどうでもいいことなのだ、と。むしろ、自分の絵がだれかから評価され、格付けされ、値付けされることがいやでしかたがないことに気づきました。もちろん、私の絵を好み、買ってくれる人がいるのはうれしく、ありがたいことです。妻もそのことを喜んでいました。不自由のない生活の安心がありましたからね。しかし、妻が亡くなると、私は絵が売れること自体には私のニーズがないことに気づいたんです。そもそも私は自分の絵が売れはじめる前から絵を描いていたし、売りたいと思って描いていたわけではない、子どものときからただ好きで描いていたんです。それは自分が描くことが好きだからだし、また描かざるをえない人間だからです。そこには自分自身にたいする好奇心があるし、成長したいというニーズもある。自分の絵のクオリティを追求しつづけるというのは苦しい面もたしかにあります。しかし、私はそうせざるをえない人間なんです。ただそれだけなんです」
 私はゆっくりとことばをえらぶ。私が話すあいだ、真衣は息をつめるようにして私の目を見つめている。
「私の絵はだれにも売れなくても、だれにも見られなくても、私のために描かれる。私の絵は私そのものです。それはだれかのためにあるのではなく、ただそこにあるのです。私がただここにあるように」
 それから私は真衣の目をまっすぐに見る。
「あなたの絵も本当はそうなんじゃないでしょうか」
 彼女の目のなかの黒い部分が揺れるのが見える。


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