第四章 冬のぬくもり 3


   3

「無理に好きにならなくていいですよ。そのときが来れば自然に好きになるんだから」
 私は笑いながらいう。真衣は私からカップを取りかえし、もう一度口にふくむ。そしてやはり顔をしかめる。
「先生はいつからコーヒーが好きになったんですか?」
「いつからだろう……」
 私はすこしかんがえる。
「子どものころから好きだったような気がする。いや、子どものころは甘いコーヒーしか飲めなかったな。コーヒー牛乳とか、甘ったるい缶コーヒーとか。たしかに好きだったけど、砂糖がはいってないと飲めなかったかもしれない」
「いつから砂糖なしのコーヒーが好きになったんですか?」
「それをいまかんがえています」
 いつからだろう。かなり昔のことだ。結婚前にはもうコーヒーはストレートで飲んでいたような気がする。たぶんひとり暮らしをしているときだろう、絵を描きながらインスタントコーヒーを時々飲んでいたが、いちいち砂糖やミルクをいれるのが面倒になってきたのだ。しだいに砂糖やミルク抜きで飲むようになって、喫茶店などで飲むときにもストレートで飲むようになった。やがて砂糖やミルクを加えないコーヒーにも微妙な甘みや苦味の楽しみがあることを発見し、アロマとともに楽しむようになったのだと思う。
「とくに私には苦味が重要なんです」
 と私はつづける。
「苦味なんて子どものころはまずいばかりだった。しかし、おいしさにたいするアンチとも思える苦味が、食べ物や飲み物の味わいに複雑さをもたらしているんだと思います。苦味を受けいれられたとき、楽しめる味覚の幅が大きく広がったような気がします」
 真衣が複雑な表情をしている。
「人生もおなじですよ」
 とつづけながら、私は自分の話が説教くさく傾いているのではないかと心配している。
「楽しいこともあれば苦しいこともある。苦しいことをなくそうとしても、それはかならずやってくる。だったら、苦しいことやつらいこと、嫌なことも、ありのままに受けいれられたらいいでしょう。拒絶せずに全部味わえたら、それこそ味わい深い人生になるんじゃないでしょうか。私がこういう身体になったり、思うように描けなくなったこともまた、ひとつの味わいとして味わいきればいいと思ってるんです」
「先生のおっしゃること、いまはよくわからないけれど、わかるようになりたいです」
 そういって、真衣はちょっとおどけるようなしぐさでコーヒーを飲む。そのしぐさが私にはいとおしくてしかたがない。いとおしい気持ちを味わっていると、突然の質問に不意をつかれる。
「先生、お風呂はどうされてるんですか?」

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