第四章 冬のぬくもり 6


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 事件の前は、自分の身体的自由や自立をうたがったことはなかった。どこへ行くにも、なにをするにも、それは自分の自由であり、選択肢は自分がにぎっているものと思っていた。いや、思うことすらしなかった。そんなことをかんがえさえしなかった。しかし、大怪我《おおけが》を負《お》い、人の手を借りずに立ちあがることもできなくなったとき、人はそもそもだれかに依存せずに生きていくことなど不可能だということに気づいた。いやおうなく人の手を借りたときにはじめて、これまで自由だと思っていた状態でも人の手を借り依存して生きていたのだということに気づいた。
 気持ちがおもむいてどこかに出かけようとする。その乗り物はだれが作ったものなのか。電車の運用システムはだれが作り、だれが管理しているのか。道路はだれが舗装したのか。街はだれが作ったのか。この衣服はだれが作ったのか。靴はだれが作ったのか。食事の材料はだれが作ったのか。水や電気はどこから来るのか。そもそも私がここにこうして生きているこの時空の瞬間へと私の存在をとどけてきたのは、無数の人の手や環境だ。
 人が自分を自由だ、あるいは自立できている、と思うとき、それは数限りない依存の上に成り立っているということに、私は気づいた。その依存のことをかんがえるとき、自分で身体を起こすこともままならない状態と、自由に歩きまわれる状態に、どれほどの差異があるというのだろうか。
 自分の傲慢さを、身体の麻痺が気づかせてくれた。
 私は自分の世話をしてくれる人はもちろん、寝たきりの私に会いに来てくれる人たちに丁寧に、敬意と感謝をもって接するようになった。ある程度動けるようになっても、世話をしてくれたり会いに来てくれた人でなくても、おなじような丁寧さで接するようになっていった。それは意識的にこころがけたのではなく、自然にそうなっていったのだ。
 きちんと自覚してはいなかったが、ちいさな子どもに対してすら丁寧なことばで接していたかもしれない。真衣にたいしても丁寧語を使っていたようだ。自分では意識していなかったが、いわれてみればたしかにそうしていた。
「私がきみに丁寧語を使うのは変でしょうか」
「そんなことはないですけど……」
 真衣はちょっといいよどむ。それから思いきったようにいう。
「変じゃないですけど、なんかさびしいです」
「さびしい?」
「普通にしゃべってくれるほうがいいです。さっきみたいに。丁寧に話されると、なんだか距離を置かれている感じがして、さびしいんです。わたしの思いこみかもしれないけど」

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