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【ヒプマイ考察#6】歌詞考察 開眼

音楽原作キャラクターラッププロジェクト
『ヒプノシスマイク』
(通称ヒプマイ)

今回はBad Ass Templeの2nd DRBの際のチーム曲『開眼』

作詞:アフロ
作曲:池永正二(あらかじめ決められた恋人たちへ)

これまでのB.A.Tのストーリーを深く理解した作詞センスが光ります(もちろん曲も凄く良いです)。

今回は歌詞の内容から意味合いを探ってみたいと思います。


冒頭

四十物十四(語り)
「この世の全てが暗闇ならば
瞼を開く意味などないから
いっそこの目を潰してしまえば
溢れる涙は止まるだろうか」

→虐められていた十四君の絶望感が伝わる表現


天国獄
「お前の叫びはお前のもので
弁護は出来ても代弁は出来ない
同じく俺の怒りや痛みも俺だけのもんだ
誰も触るな」

→上の2行は弁護士としての獄さんのポリシーが現れています。
下の2行は兄を自殺で失った痛み、加害者への怒り、そして何も知らず兄を助けられなかった自分への怒りと痛みに対するやるせなさが込められています。

空却
「二つ眼(まなこ)じゃ
抱えきれない苦しみなら
ここに預かろう」

→『預かる』に空却のポリシーが表れています。『取り除く』でも『苦しみから救う』でも無いのです。

預かって共に歩くのが空却のスタンス。しかし、あくまで預かっているだけなので、その苦しみはいつか自分自身が向き合い、戦ったり乗り越えたりするものなのです。

『自分自身』を乗り越える。これは、この『開眼』やバトル曲『Light & Shadow』でも何度か出てくるB.A.Tのテーマです。


サビ
「開眼
さぁ 目を開けて見ろ
意志で 意地で 生きて
一蓮托生ナゴヤ・ディビジョン
六つの眼で共に見つめよう」

→意志で(空却)意地で(獄)生きて(十四)
に三者三様が出ています。『一蓮托生』は元は仏教用語ですが、B.A.Tの結び付きを表すのにピッタリの言葉です。


空却
「誰しも皆 過ちはあるが
間違え方を間違えちゃダメだ」

→『間違え方を間違える』と言うのは、例えば虐め加害者のような人を踏みにじる行為とかを言うのだと思います。

空却
「救いの言葉に興味はねぇな
悪いが神や仏じゃねぇんだよ
通りすがりのお坊さん
そんでお前らの家族」

→『救う』というのは神宮寺寂雷のポリシーであるので、その点と対照的でもある空却のスタンス。



「強くなりたいだけじゃない
大事なものを守りたい
信じた正義よ 武器じゃなく
人を守る為の盾であれ」

→全部が好きすぎるこの歌の中でも一番好きかもしれないこのフレーズ。
もともとは『悪』(特に虐め加害者)に罰を与えるための武器として身に付けた弁護士としての力。しかし、苦しみの中で、空却らと触れ合う中で辿り着いた境地が『人を守る為の盾』というわけです。


空却
「進む先に道はない
ならば幸い
迷うこともない」

→高村光太郎さんの詩『道程』で「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」という有名な一節がありますが、それを彷彿させる。
道は先に無くていい。自分が歩んだそのあとだけが道なわけです。どこに辿り着こうと自分の意志と意地で生きて進むしかないわけです。


ヒプマイは神曲だらけですが、『開眼』はメッセージ性と迫力という点で際立った曲となっています。

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