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ニーチェ「完全な読者の像」

哲学者は、主に同業者を相手に論文を書いているため、文章が難解なのは仕方がありません。一方で、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は万人向けに書かれているため、文章が非常にわかりやすいです。しかし、表現がわかりやすいからといって、ニーチェの真意を理解できるかというと、それはまた別の問題です。ニーチェ自身も「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」とサブタイトルに付けています。では、誰がニーチェの著作を理解できるのかというと、「勇気と好奇心とのかたまりのような怪物」と言われています。

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だれでも読めるが、だれにも読めない書物
氷上英廣訳
万人に与える書、何びとにも与えぬ書
手塚富雄訳
万人のための、そして、だれのためでもない本
秋山英夫訳
万人のための、そして誰のためでもない本
佐々木中訳
誰にも向いていて誰にも向かない本
森一郎訳
万人のための一書なれど 真に読み解く人なからむ
小山修一訳

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ツァラトゥストラの言葉を聴く耳をもつことは、誰にでも許されていることではない。
『この人を見よ』「序言4」

いまも読まれず、将来も読まれず。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」

誰もわたしに耳を傾けず、目も向けないということになってきた。
『この人を見よ』「序言」

彼らは笑っている。彼らはわたしを理解しない。わたしは彼らの耳のための口ではない。
『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説」

だがわたしは彼らから遠い。わたしの感覚は彼らに通じない。
『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説」

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私の『ツァラトゥストラ』を人びとが理解しなくても、私はかくべつ怪しまない。私はそこにいかなる非難をも見ない。その中から六つの文章を理解したならば、つまり身にしみて体験したならば、人間は一段と高い秩序に押しあげられるというほどの、それほど深い、それほど異常な書物なのだ。しかしあの『善悪の彼岸』を理解しない──ということになると、ほとほと私は感嘆にたえない──
『ニーチェ全集12』(白水社)p41

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かつて、あのドクトル・ハインリヒ・フォン・シュタインが、わたしの『ツァラトゥストラ』を一語も理解できないと、正直に訴えたとき、わたしは彼に言ったものだ。それは当然のことだ、あの中の六つの文を理解(というのはつまり体験)したなら、それは、「近代」人の達しうるより一段高い人間の段階へわれわれを高めることになると。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか1」

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結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳ももたないのだ。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか1」

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わたしのツァラトゥストラをいくぶんでも理解するためには、ひとはおそらくわたしのそれに似た制約をになっていなければなるまい、──すなわち片足を生の彼岸に踏み入れているという。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか3」

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彼ら(学識のある学者)は手慣れたものだ。利口な指づかいを見せる。彼らの複雑巧妙さのもとで、私の単純素朴さに何が望めようか。彼らの指は、糸のどんな通し方も結び方も編み方も心得ている。そうして彼らは、精神の肢をすっぽり包む靴下をこしらえてみせるのだ。
『ツァラトゥストラ』「学者」

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わたしの著書に親しむことによってどんなにひどく善良な趣味が「そこなわれる」かということも、いくつかの例でわたしには証明ずみのことだ。要するに、わたしの著書を読み出すと、ほかの本にはもうがまんができなくなるのだ。哲学書などはその筆頭である。この高貴で繊細な、わたしの著書の世界へ踏み入ることは、比類のない特典なのだ。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか3」

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こういう本を征服するには、繊細きわまる指と、同時に勇敢きわまる拳によらなければならない。魂に少しでも虚弱なところがあったら、失格である、絶対に。消化不良の気味があるだけでもだめだ。神経などもっていてはいけない。腹部が活力にみちていなければならない。魂に貧しさやうっとうしさがあっては、もちろんだめだが、もっといけないのは、はらわたの中に卑怯、不潔、ひそかな復讐の念が、ひそんでいることだ。

完全な読者の像を思いうかべるとき、わたしの念頭にうかぶのは、いつも、勇気と好奇心とのかたまりのような怪物だ。それにくわえて、しなやかな、狡知にたけた、すきのない人間、生まれつき冒険者であり、発見者であるような存在だ。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに良い本を書くのか」

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ツァラトゥストラは、もっぱら誰にむかって、彼の謎を物語ろうとするのか?君たち、敢為な探究者、探検者よ。またおよそ狡猾な帆をあげて恐ろしい海に乗り出したことのある者たちよ。君たち、謎に酔い痴れている者たちよ、薄明を喜ぶ者たちよ。笛の音を聞けばどんな谷の迷路へも誘い寄せられる魂をもつ者たちよ。おまえたちは、臆病な手で一本の糸を探りながら、おぼつかなく歩もうとはしていない。そして謎を解き当てることができるときには、たどたどしく推論することを憎む──
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか3」

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わたしの著書の空気を呼吸するすべを心得ている者は、それが高山の空気、強烈な空気であることを知っている。ひとはまずこの空気に合うように出来ていなければならぬ。さもないと、その中で風邪をひく危険は、けっして小さくはない。氷はまぢかだ。孤独はぞっとするほどだ。
しかし、なんと安らかに万物は光の中に横たわっていることか!なんと自由にわれらは呼吸できることか!なんと多くのものがわれらの下位に感じられることか!わたしがこれまで理解し、身をもって生きてきた哲学は、自ら進んで氷と高山の中に生きることであるのだ──
『この人を見よ』「序言3」

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そこでしゃべっているのは、「教祖」ではない。病気と力への意思との両性具有者は、教祖と呼ばれるが、そういう両性具有者がしゃべっているのではない。なによりもまず、この人物の口から聞こえてくるトーンに、晴れた冬の日のように穏やかなそのトーンに、しっかり耳を傾けてもらいたい。そうすれば、みじめにもこの人物の知恵の意味を誤解することはない。
『この人を見よ』「序言」

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ついでにわたしの文体の技法について、ひとこと一般的なことを言っておこう。パトスをはらんでいるひとつの状態、ひとつの内的緊張を、記号の連鎖、ならびにそれらの記号のテンポによって伝達すること──これが、およそ文体の意味である。そして、わたしの場合、内的状態が人並みはずれて多様であることを考えると、わたしには多くの文体の可能性があるわけである──かつて何びとも使いこなせなかったほどの多様きわまる文体の技法の可能性である。よい文体とは、ひとつの内的状態の真の姿を伝えるものであり、記号、記号のテンポ、身ぶり 複雑な構造をもつ文章の法則はすべて身ぶりの技術だ──の行使をやりそこねない文体である。わたしの本能は、この点であやまちを犯すことがない。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか4」

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『ツァラトゥストラはこう語った』という著作は、およそ出来合いの思想の解説や伝達を目指すものではなく、むしろ読者に対して幾重もの謎を仕掛け、読者がそこで躓き、思いあぐね、手探りで出口を探すような体験を求めている。そこでは、「読む」という経験そのものに負荷をかけ、そこに稀有の緊張と密度を生み出すことが目論まれているのである。すべては「読む」という体験そのものの質にかかっている。そこで要求されるのは、このテクストに対応できるだけの解釈学であり、ニーチェの言葉で言えば「未来の文献学」なのである。
村井則夫『ニーチェ──ツァラトゥストラの謎』(中公新書)

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作品というものが、一貫性や連続性を規準に測られるとするなら、『ツァラトゥストラ』はおよそ作品の名にふさわしくない、むしろ作品という観念を覆すようなテクストなのである。それは、哲学と文学、小説と詩、喜劇と悲劇などの既成のジャンル分けを嘲笑し、そうした区分から逃れ続けているようにも思えるのである。
村井則夫『ニーチェ──ツァラトゥストラの謎』(中公新書)

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ニーチェのテクストは、多面的で不可解な謎をはらみながら、独自の磁力を発散し、読者を誘惑してやまない。そのテクストの秘密、とりわけニーチェの著作群のなかでもひときわ謎めいた『ツァラトゥストラはこう語った』を読み解き、ニーチェのテクストの一声一声に耳を澄まし、その吐息が放つ瘴気に自ら感染することが本書の課題である。
村井則夫『ニーチェ──ツァラトゥストラの謎』(中公新書)

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われわれの前に開かれているのは、書物に甘んじることのない書物であり、読まれるだけでなく、生きられることを望んでいる書物なのだから。
村井則夫『ニーチェ──ツァラトゥストラの謎』(中公新書)

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いつかは、わたしの生き方、教え方を実践し、教育するような公共機関が必要となってくるだろう。そうなれば、『ツァラトゥストラ』の解釈のためのおそらく特別の講座が設けられることだろう。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか1」

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