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⑤タロットの独我論と中観の境地

グノーシス主義の独我論

タロットは「人間は神である」とするグノーシス主義を背景に持っています。この「人間即神也」という思想は、インドでは梵我一如、仏凡一体などと言われています。

神との神秘的合一は世界のあらゆる宗教で言われていることですので、宗教や神秘主義の歴史を知っている人にとっては突飛な思想ではありません。この神秘主義の究極が独我論になります。

独我論は、哲学における認識論の見方の一つで、自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない、とする。

Wikipedia

今度は反対に、グノーシス主義の限界はどこに認められるべきだろうか。結論から言えば、それはグノーシス主義が究極的には絶対的人間中心主義である点に認められる。

一方で人間の本来の自己は神話の言う至高神からの流出としてそのまま神である。この意味で、人間の本来の自己を超越するものは何もない。他方で可視的な宇宙万物は、その中に拡散され監禁されている光の部分が一定のところまで回収され終われば、その時点で終末を迎える。

これらすべては、人間の本来の自己が現実の世界を無限に超越する価値であり、現実の世界に最後まで居場所を持たないのだ、というグノーシス主義者の自己理解を神話に投影したものに他ならない。この意味でグノーシス主義は世界も超越もない独我論の体系なのである。

大貫隆『グノーシスの神話』
独我論の体系

仏教(苫米地英人)の空観・仮観

グノーシス主義は〝究極的には〟絶対的人間中心主義であり、世界も超越もない独我論の体系であると言われています。この独我論は仏教でいうところの空観と似ています。

空の思想とは、私たちそれぞれが自分の心を起点にして始まる宇宙を一つずつ持っているということでした。この宇宙のすべての存在をダイナミックかつ多元的に捉え、それらすべての関係の中心に自分の心があり、自分の心がすべての存在、すべての事象を生み出しているのです。  

この空の思想に立脚して世の中のすべてのことを捉える考え方を「空観」と言います。  

空観では、幸せだけが幻想なわけではなく、「世の中のすべてが幻想であるとわかること」を意味していますから、私たちを不幸にするものでさえも幻想だと説きます。

このように、「すべては幻想である」ことをわかったうえで、「仮のゴール」や「仮の役割」を設定して、それを徹底的にリアルだと感じる考え方を「仮観」と言います。  

ただし、一般的な宗教方式では、「空観」を学ぶことは少ないのです。なぜなら、仏教以外の宗教では、この「仮」の世界を神が作った実の世界として教えるからです。

「空観」を学んで、理解したうえでの「仮観」なら、他人に自分の信じている妄想を押しつけたりはしないので何の問題もないのですが、「仮観」だけでは争いが生まれてしまいます。  

「仮観」だけしかない思想を、私は「実観」と呼んでいます。これは、仏教用語にはない言葉ですが、すべては幻想であるという「空観」が欠如しているということは、すなわち「仮のゴールを実在のゴールと勘違いしてしまう」状態にあるわけですから、「実観」と呼ぶのがふさわしいと思うからです。

苫米地英人『201冊目で私が一番伝えたかったこと』
空観・仮観・中観

まさにグノーシス主義は、「仮」の世界を神が作った実の世界として教えています。神=デミウルゴスがこの実の世界(苦しみと悪のある世界)を創造したと教えています。それ故に、この世界から抜け出し本来の場所に戻ろうとするのです。グノーシス主義は究極的には独我論=空観ですが、実質的には仮観・実観の世界観と言えます。

タロットに中観を接続する 

タロットの背景にはグノーシス主義の独我論がありますが、それは仏教でいうところの空観と仮観です。苫米地博士は空観から仮観を経て中観の境地に到達することを勧めています。

それは、「中観」という考え方です。これは、すべての存在は幻想であるとする「空観」と、万物の相互関係性(縁起)の中における「仮のゴール(役割)」に注目する「仮観」の2つの考え方をバランス良く維持している考え方と言えます。

天台宗のような大乗仏教においては、悟りに至るプロセスとして、まず「空観」を学んだ後、次に「仮観」を学び、そして最終的に「中観」を学ぶという順番で理解を深めるようにしています。

「空観」だけでは虚無主義に陥りやすく、「仮観」だけでは対立を生みやすいため、それら二つの考えを終始繰り返しながら、両者のバランスを取った考え方である「中観」に到達しなければならない、と説いているのです。  事実、釈迦は終始一貫して「中観」を説いていました。

あなたがもし本当の幸せを手に入れたければ、空観の視点に立つ「釈迦方式」でなければなりません。しかし、その場合は、空観だけを知るのではなく、空観から仮観を経て、釈迦が終始一貫して説き続けた「中観」の境地に到達できるようにする必要があるのです。

苫米地英人『201冊目で私が一番伝えたかったこと』

タロットの目的は「本来の自己は神である」ことを覚らせることにありますが、悪い意味での独我論(空観・仮観)に陥らないためにも、グノーシス主義に仏教の中観思想を組み込むことが鍵となります。

それにより、タロットの本来の目的である「神性の自覚」による自由や創造性や他者との関わりにより得られる幸福を手に入れることができるようになります。

神性の自覚

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