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中込遊里の日記ナントカ第79回「努力と才能」

(2015年2月28日執筆)

塾講師を始めて6、7年になる。小学生低学年から高校生までを教えている。

私は、悲しいかな、趣味というものがほとんどなく、また自分のそういうところを好まないのだが、これを趣味と言っていいのかどうだか、国民的アニメと言われる海産物の名前の一家のアニメがマニア的に好きなので、BGM替わりに何かにつけ動画をパソコンから垂れ流す。作家が亡くなり金輪際増えることはなくなった漫画とは異なりアニメの方は求められて際限がないので、毎週3本のまとまったストーリーを創作するのは何たる苦労だろうとは思うが、エピソードの使い回しが最早名物である。

中でも、小学校5年生の長男の「勉強嫌い」キャラクターによる物語の発展は、毎週見ない画はない。殊に、彼のテストの結果が満足いかないので両親に叱り飛ばされるところを、スタッフたちは何万回整えたことだろう。私はそんなふうにこのアニメの歴史にしみじみするのが好きなのだが、ここで書きたいのは、別のこと。

一般的に言って、小学校のテストは易しく出来ていて、成績はどの教科をとっても100点を取るのが当たり前、90点80点で多少の劣等感を抱くものだと思う。そこを、海産物一家の長男は38点だの22点だのひどい点数を取ってこっぴどくやられるのだから、フィクションの話ではあるのだが、ギクッとするところもあって、堅実な両親の、彼に言う言葉は教訓めいている。

「努力が足りないからこんなひどい成績を取るんだ」「今日から学校から帰ったら毎日机に向かうこと!」という決まり文句に尻を叩かれて、彼は大好きな野球に行きたい一心で机にかじりつき宿題をウンウン言いながら片づけるというのがほのぼのするのだが、これが現実だとすると、そうしてばかりもいられない。

冷たいことを言うので、心苦しい点もあるのだが、人が生きる時間には限りがあるように、いくら努力したところで、限られた学生時代に花開かぬ者もある、というのが、長年塾講師を経験している者からの意見だ。

才能のある人間は、大した努力をしなくても、学校でとにかくイスに座って耳に入ってくる言葉を覚えこむようにできている。この国の義務教育は、記憶力の優れた者に良い点が入るようにできているので、能力のある人間が優を与えられる。受験勉強でも、ほとんどの場合、記憶が得意の者等が良い成績を修めるのであって、他に類のない発想をする者は公的には日の目を見ない。

だから、海産物一家の長男は、小学生であれ程までに低い点数を修めるのだから、授業崩壊でもしていない限り、それはもう能力の限界であり、外部の応援なく独りで机にかじりついていたところであては無いのだ。要するに、成績優秀者は、学校で授業を聞いていれば、それだけで及第点は得るのであって、それに加えて、一心不乱の努力があれば、優秀になるのだと思う。

私の信頼する人が、「才能は生まれた時から決まっている」ということを言う。それを私は半分は信じないが、半分は信ずる。信じないのは、それならば、生きる時の楽しみがなくなるのではないかという思いからであり、信ずるのは、経験に基づくものからくる。

私は、16歳くらいから23歳くらいまでの、何事も柔らかく吸収するであろう年齢に、勉学をおろそかにした。そのことが、今になって、ひたひたと響いている。記憶している物事が少ない。大切にしたいことが抜け落ちている感覚で、毎日を生活している。これもまた、持って生まれた才能の結果と思う。日々、子ども等に触れ合って、醒めた目で彼らを判断するにつけ、同時に、自身の能力の無さが引き立つ。

「ロミオとヂュリエット」を演出するのにあたって、もう、経験がないとか、若手だとか、そういう言訳は通じないと意識した。そこで見えてくるのは、否も応もなく、これまでの経験と、勉学の積み重ねだった。私には、欠けている。そのことに気が付かず、夢中で作品を垂れ流してきた時期には、とことん己惚れていた。私よりも演劇を好きで信じている人は、学校には居なかった。居なかったと信じていた。そのまま、20代の大半は流れた。それは哀しいことで、出会いをふいにした証拠なのだった。
 
近頃は、有難いことに、尊敬する方々と出会うことが多くなった。それと比例して、演劇を愛しいと思うようになってきた。一方、同時に、自分の不勉強さを恥じ、もう取り返せないのだろう、とも思うようになってきた。だからといって、がっかりと落ち込んでいるわけでもない。過去が戻るわけでもなし、今からまた満足いくように勉強すればよいのだろうと思う。だけども、そう思えば思うほど、柔軟で時間も在った時期に戻れたらどんなに良いかと思う。

塾は、受験が終わったばかり。気まぐれに、二人の中学三年生に、「高校の目標は何」と聞くと、二人とも「勉強を習慣づけたい」「もう苦労しないように」と言う。受験から解放された今、勉強のことなど考えたくもないだろうと予想するに、意外だった。二人とも、特別優秀というわけではないが、成績は及第点、もしかすると、勉強する場である塾だからこその好い子の答えと言えるかもしれないが、その様子もあまりなく、純に感ずる。何歳になっても、反省は同じなのかもしれぬ。いずれにしても、かつての不勉強を恥じるこころは、還れないことでじれったく、切なく、やるせない。

気に入りだからといって、先ほどの、海産物一家の両親をフォローするわけではないが、記憶に能力があるということとは別に、「粘り強く覚える時間を作る」ということは非常に効果的ではあって、人は時間をかければかけるほど記憶はできるものであることは違いない。しかし、時間をかけられるというのも、才能のひとつであって、集中して机を前にする時間を安定させるというのは優れた人物にのみ与えられる特権であるように思える。

だからといって、成績の良くない子に絶望しているわけではなく、勉強や記憶が不得手であれば、別のことに熱中して社会の役に立てばよいのだと思う。しかし、これが自分のこととなると、途端に客観性を失い、自らの不勉強に愕然とする。

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